Save My LIFE

他人を省いて自分を生きる

正義マンの正体は「権力の奴隷」

社会のルールに従わない人に対して攻撃的になる人がいます。
こういう人を正義マンと呼ぶらしいですが、今回はこの正義マンの精神構造を簡潔に説明したいと思います。

彼らの行動原理を理解するカギは2つです。

・知的弱者であること。
・見栄っ張りであること。

この二つを押さえた上で彼らを観察すると、彼らの行動原理を単純明快に説明できます。
彼らの行動原理がつまびらかになれば、彼らの理不尽な態度に悲しい気持ちにさせられることもなくなるでしょう。


【自分なりの正しさを考え出す頭が足りない】

先ずは、彼らの一つ目の特徴である「知的弱者であること」の方から見ていきましょう。

「正しい」という言葉がありますが、これはもっと正確に言えば「自分にとって正しい」という意味になります。

ここで、正しさを「論理によって導出された結論であること」と定義するとしましょう。
論理的に導き出せる正しさというものには、必ず前提情報があります。

論理の基本骨格である三段論法を例にとればわかりやすいでしょう。
人間はみな、いつか死ぬ。ソクラテスは人間である。故にソクラテスはいつか死ぬ。
という論理展開をするときの「人間はみな、いつか死ぬ」が論理における前提情報ですね。

もしもこの前提が崩れて死なない人間ができ上がった日には、この論理は成り立ちません。
そして、論理的に思考を働かせるときに各人が置かれている条件というものは、生まれた時から一人一人違っています。
よって、正しさが論理によって決まっているこの世の中では、「正しいとは、あくまでもその人物にとって正しい、という意味を決して超えない」と言うことができるでしょう。

この事実からわかることは、自分の頭で考えない限り、自分が従うべき自分なりの正しさとは出会えないということです。

社会を規定しているルールというものは、大半の人にとって、言うまでもなく「自分以外の誰かが考え出した正しさを形にするためのフレーム」ですから、社会のルールを「自らも従うべき自分自身の正しさと言えるものの一つ」として受け止められるかどうかは、その人物の批判的思考力に掛かっていると言えます。

これができる思考力が備わっている人は、たとえそれが社会のルールであるとはいえ、従うか否かはあくまでも個々人の裁量に掛かっていることが、自分自身の経験則としても理解できているため、決して他人に押し付けようという発想にはなりません。

もちろん、人が死ぬようなルール違反は別でしょうが。

さて、ここまで考えると、社会のルールを自分のもののように振りかざして、他人もそれに従うように圧力を掛けてくる正義マンの思考回路が見えてくるかと思います。

結論を言うと、彼らには自分なりの正しさを考え出したり判定したりするだけの頭脳が無いのです。
その結果、自分が取っているポジション、選んだ生き方に自信が持てず、権力者が考え出したルールを笠に着てこれを補うことを目的に、正義マンを演じることになるのです。


【競争に負けないことでしか自分の価値を測れない】

とは言え、これだけだと完全な説明にはなっていません。
そもそもなぜ彼らが、たかだか「頭が悪いことへの自覚」だけで、正義マンを演じざるを得ないほどに自信を喪失しているのか?の説明がついていないからです。
というわけで、次は「なぜ正義マンは頭脳明晰であることにそこまで拘るのか?」を暴いてみようと思います。

競争に勝つことに快感を覚えるタイプの人にはわかるでしょうが、世の中には競争に勝つこと、ないしは負けないことでしか自分の価値を測れない人がいます。

我が道を突き進むことにしか興味が無い人や、知的好奇心を満たすことが一番大事!という人、他人から認められなきゃ意味が無い!というタイプの人には理解不能かもしれませんが、とりあえず、世の中には競争原理主義が社会圧によってではなく、生まれついての性向として備わっている人がいるのだと思っておいてください。

さて、こういうタイプの人はそもそもルールというものが大好物です。
なぜかと言うと、ルールがないと勝敗は決まらないからです。
勝つことや負けないことで満足感を得られるタイプの競争原理至上主義者的には、ルールの中でしか自分の価値、そこからもたらされる自信というものはあり得ませんから、勝ち負けが決まらないことには関心がありません。

とは言え、ルールを勝ち抜くためには、相応の才能や能力、努力が不可欠であることは言うまでもありません。
受験戦争を戦ったことがある人や、スポーツで順位を争った経験がある人なら、誰もが知っていることです。

尚且つ、ルールの中で勝者になれるのは、挑戦者の中のほんの一握りです。
勝敗という形で人間に価値付けするのがルールのある戦いなので、これは当たり前ですね。
そして、この「当たり前」が敗者側にカウントされる人の精神に大問題を起こします。

競争原理主義を持たない人には無関係ですが、競争原理主義者にとって、敗北は自分という存在の価値の崩壊を意味します。
勝つことや負けないことでしか自分に価値を見出せない訳ですから、これも当然の結果と言えるでしょう。

簡単に言うと、こうなってしまった競争原理主義者には「負け癖」が付きます。
分かりやすい変化としては、言い訳がましくなったり、自分をバカだ無能だと言ってはばからなくなったり、考えたり努力したりすることを放棄したりするようになります。

勝つことに拘る彼らの精神性からは矛盾するように見えますが、これにはちゃんと彼らなりの論理があります。
思い出してください。彼らにとっては負けないことも重要な課題なのです。
考えたり努力したりといった練習をやめれば、「やれば勝てる自分像」「やれば負けいない自分像」を守ることができるし、練習してないのだから負けても仕方ないという言い訳が使えるようになります。
普段から無能をアピールしておけば、負けて当たり前だから、ほんとうに負けてしまった場面で必要以上に傷付かなくて済みます。

だから、負け癖のついた競争原理主義者は、言い訳がましくなったり、自分はバカですと言わんばかりの謎のアピールが増えたり、努力を放棄したりするようになります。

とは言え、ただ負けないばかりでは彼らも気が済みません。
勝つことも彼らの至上命題の一つなのですから。

この時、彼らが使えるとても都合のいい道具があります。
権力者という知的強者の考え出したルールです。

無力にして無能な自分が考えた意見は、簡単に他人に覆されてしまう恐れがありますが、推定知者である社会的な権力者が作ったルールなら、他人に向けて振り下ろしても、そう簡単に壊れてしまうことは無いはずです。
無意識に働いたこのような意思決定の結果、彼らは社会のルールを拠り所に、他人と戦うことを選ぶのです。

そこに自分のやっていることの正当性への反省的な視点などはありません。
言うなれば追い詰められたネズミのような背水の陣を戦っているつもりの彼らですから、そんなことにかまっている余裕はないわけです。


【まとめ】

いろいろと細かく説明しましたが、正義マンをもっと単純な例えで言い表すなら、「どうでもいいことを自信の根拠にしたがる無能な年寄り」と似たようなものです。

世の中には、過去の栄光にすがるためだけに生きているような人や、プライドとはき違えられた単なる見栄っ張りな自分を満たすためだけに生きてしまっているような人がいるものです。

例えば、スポーツの大会などが開催されて、それがテレビなどで放送されると、地元の選手やチームの入賞を自分自身の誇りのように感じる人がいるそうです。

彼らは恐らく、自分の能力や立場にあまりにも自信が無さ過ぎて、本来自分の能力や成果とは無関係な「どうでもいいこと」ですら誇りにしないと、精神的な安定を保てないのだと思います。

簡単に言うと、無能を自覚している人ほど、どうでもいいことを誇りにしたがる傾向があるというわけです。
健康にはいいのかもしれませんが、健全とは程遠い生き方です。

だから私は、他人のちょっとしたミスに過敏に反応してこれを責め立てる癖に、何が問題なのかを質問すると口を閉ざしてしまう人や、明後日の方向の回答しかできない人の存在が、とても悲しく思います。

彼らは自分が思考停止して生きてきたことのツケによる自信喪失というストレスを、他人をサンドバックにすることで発散しようともくろんでいるから、あのような矛盾したアクションを起こしてしまうわけです。

サンドバックにされた被害者がかわいそうであることはもちろんのこと、自信が欲しかったはずなのに、気付けば他人のルールに縛られた奴隷になってしまっていた!という矛盾を抱えた彼らの立場もかわいそうなものです。

思考停止をやめればすぐに解消される問題とは言え、考えないことの楽チンさを思えば、それは酒やタバコのように、そう簡単に手放せるものではないのかもしれません。

私の友人にも同じようなひがみ根性に支配されている人がいて、このような精神性を本人に説明してやると、納得すると同時に、今度は社会のルールに従う代わりに私の言いなりになろうとし始めるという「ちゃんと聞いてましたか?」と言いたくなるようなアクションに出る人がいます。

詰まるところ、思考停止に慣れきってしまった人は、思考することができている自分だった経験が無いために、思考を働かせるとはどういうことなのかもわからないのでしょう。
人間は知っているものしか認識できませんから。

思考停止に効く薬はそう簡単に見つかりそうにありませんが、手っ取り早い方法としては、ちゃんと自分の考えを持って生きている競争原理主義者のモデルになる人物を知ることが第一歩かもしれませんね。

例えば、ホリエモンやメンタリストDaiGoなどの人物は、いわば「勝ち癖」のついた競争原理主義者で、自分の選択やポジションに自信を持っていますから、ちゃんと自分の頭で考えて正しさを選んでいます。
その証拠に、彼らは社会のルールに対しても、知的弱者みたくこれを武器にするのではなくて、使いこなして勝利を掴んだり、時には批判の対象にしたりもします。

わたし自身は、知的好奇心を満たすことにしか興味が無いタイプの人間なのでわかりませんが、競争の中でしか自分の価値を測れないタイプの人には、ホリエモンやDaiGoは自分と価値観を同じくする人間の上手くいってるパターンとして参考になる部分が多いのではないでしょうか?

人間は知っていることしか認識出ませんから、思考停止してないバージョンの自分がどんなであるかに当たりをつける意味でも、負け癖から脱却して正義マンを卒業する意味でも、先人の姿を自分なりに研究してみてはいかがでしょうか。

食べると下痢を起こす【改善への3つの方針】

【ごあいさつ】

 

食べるたびに下痢を起こすという方は、本記事必読です!

 

わたし自身、1年前までは、食べるたびに下痢を起こす問題を抱えていましたが、これから紹介する3つの方針を実践することで、今では完全に改善しました。

 

食べた直後の下痢からも、それ以外の下痢からも、今では完全に解放されています。

 

というわけで、さっそく3つの方針を順に解説して、具体的な実践方法まで落とし込んでいきたいと思います。

わたし自身が容易に実践できたことなので、ほぼ誰でも簡単に実践できるはずです。

 

【食べた直後の下痢の3つの原因】

 

食べた直後の下痢の原因として考えられる可能性は以下の3つです。

 

・食べる量の問題

 

・食べるタイミングの問題

 

・食べ物の問題

 

これらを順に解説しますが、特に3つ目の「食べ物の問題」は盲点になっている方が多いと思いますので、ぜひともすべてに目を通すことをおすすめします。

 

【食べる量の問題】

 

食べる量の問題とは、端的に言えば「食べすぎ!」ってことです。

 

人間は固形物を口にしてから排泄に至るまでに、およそ12時間の時間を要するとされています。

 

なので、前の食事が終わってから12時間が経過する前に次の食事を食べ始めてしまうと、胃や腸などの消化管が「まだ、消化吸収が終わってないのに、もう新しい食べ物が入ってきたよ!」とびっくりしてしまいます。

 

このひっ迫した状況に対処するためには、今現在消化中の食べ物をとっとと片付けて、新しい食べ物を受け入れる準備をしないとなりません。

 

とは言え、消化の効率を爆上げして危機を乗り切る。なんていうことはできません。

なので、今消化中の食べ物の消化を中途半端で終わらせて、新しい食べ物を受け入れる準備をすることになります。

 

これが、緩い状態で出てくる便、いわゆる下痢の正体です!

 

これを改善するためには、そもそもの食べる量を減らしてやればいいのです。

そうすれば、新しい食べ物が送られてきても急いでリソースを捻出する必要に駆られることはなく、胃や腸が余裕をもって消火活動にいそしんでくれるわけです。

 

わたし自身、昼食は腹7分目くらいで済ますようにして、夕食でガッツリと食べるようにしてから、お腹がゴロゴロし始める感覚がなくなりました。

 

そこのあなたも、栄養バランスを崩さずに食事の総量を減らす取り組みをしてはいかがでしょうか。

 

【食べるタイミングの問題】

 

さて、次は食べるタイミングの問題です。

 

人間も動物の一種で、バイオリズムから逃れることのできない運命ですから、食べるという活動に関しても、適切なタイミングというものがあるのです。

 

特に、朝起きぬけに食事を摂るのは、バイオリズム的には最悪です。

 

朝、起床のタイミングというのは、わたし達の体内でコルチゾールなどのストレスホルモンが分泌されており、これによって緊張が高まるから、動物は朝すっきりと目覚めることができます。

 

一方で、胃腸などの消化に関わる内蔵の活動は、身体がリラックスしている状態でこそ最大限に活躍します。

 

なので、朝のストレスが掛かっている状態のときに食事を摂ると、内蔵のコンディションが最悪なところに食べ物を投げ込むことになるので、ろくに消化吸収が進みません。

 

朝は食べ物がのどを通らない。朝は胃が食べ物を受け付けない。という方がいるかと思いますが、安心してください。至って正常な反応です。

 

そもそも、動物としての人間にとって、朝は食べる時間じゃないというだけです。

無理に食べることは決してお勧めできません。

 

そもそも、狩猟民から進化したのが私たち人間ですから、朝っぱらから豊富な食事が用意されている状況というのは不自然に極まります。

朝は狩猟活動を通じて存分に体を動かし、それによって良好になった血行が内臓を起こしたところで、1日の最初の食事を摂るのが、バイオリズムにマッチした自然な食べ方というわけです。

 

そんなわけで、わたしは朝ごはんというものを食べませんし、1日の最初の食事はお昼からです。

 

この食べ方はリーンゲインズとも言うらしいですが、現代人的な不自然な食べ方とは正反対であるため、BMIもその人の適正数値に近づいていくようです。

 

最初の数日は朝の空腹に苛まれる日々になるでしょうが、4日、5日もすれば、空腹はあっても辛さが伴わず、むしろ頭がすっきりして活動的になれるコンディションがやみつきになること請け合いです。

 

【食べ物の問題】

 

最後は食べ物そのものの問題です。

 

個々人にどんな種類の食べ物が合っているのか?という問題は、人それぞれの腸内細菌の状態によって決まります。

そして、この腸内細菌の種類や数、バランスという要因は、ひとりひとりの指紋が違っているように、決して同じことはありません。

 

よって、何を食べるのがその人の健康にとっての正解なのかも、人によって当然変わってきます。

 

特に面倒なのが、世の中には世間的に腸に良いとされている発酵食品類や、食物繊維が豊富な食べ物が合わない人がいるという事実です。

 

このような腸内細菌の状態を持っている人の場合、納豆を食べると下痢を起こすだとか、小麦を食べると下痢を起こすだとか、常識とは真逆の反応を起こすことがあります。

 

わたし自身もそんな一人で、わたしの場合、納豆を食べると2時間以内には下痢を起こすという体質を抱えています。

 

とはいえ、何がダメなのかがわかってさえいれば、単にそれを避ける食事をすればいいだけなので、対処の難しい課題ではありません。

難しいのは、毎日当たり前に食べているものが原因である場合、先入観のために気付くのが難しいことでしょう。

 

私の場合は、納豆を毎日食べる生活を始めてから、明らかに下痢の頻度が増えたので、比較的すぐに原因に思い至りましたが、誰もがそう簡単に気付けるわけではないでしょう。

 

こういう時には、FODMAP(フォドマップ)などのリストが参考になるかと思います。

FODMAPには難消化性の食品がリスト形式でまとまっており、これを参照することで、普段自分が食べているどの食品がお腹の不調の原因になっているのか、あたりを付けることを助けてくれるでしょう。

 

因みに、納豆も大豆という形でFODMAPに入っています。

 

【実践方法まとめ】

 

今回の話をまとめましょう。

 

お腹を労わるためのポイントは3つです。

 

①食事の量を減らして、胃腸が休まるようにしましょう。

 

②ストレスの多い時間帯を避けた食事を心がけましょう。

 

③身近な食品があなたに牙をむいているかもしれません。怪しい食品を抜いて経過を観察しましょう。

 

これらを実践することで、ほぼ毎日だった下痢が私の生活から完全に消失したことは、はじめに述べたとおりです。

 

お腹の状態を気にしながらの生活は、明らかにクオリティー・オブ・ライフを下げますし、それは本記事をここまで読んでいる方なら、身に染みて感じていることでしょう。

 

充実した人生のためにも、速やかに下痢の無い生活を手に入れましょう。

 

ではまた。

 

「死ぬのが怖い」は存在しないものを語る言葉に惑わされてるだけ。

【「死ぬのが怖い」はあり得ない!?】

死ぬことが怖いと思っていて、可能な限り長生きしたいと願っている人は多いでしょう。
とはいえ、実はこれ、ただの自己欺瞞ではないですかね?

実のところ、死ぬのが怖いんじゃなくて、痛々しい死に方をするのが怖いだけ。
突き詰めれば、痛いのが嫌なだけであって、死にたくないのでも怖いのでもない。
あくまでも「痛いのが嫌」という話です。


【「老い」は死ぬこととは無関係】

なんなら、言動の上では「死を恐れている」としながら、実は死とは全く関係の無い事柄を恐れている場合すらある。
「老い」というやつだ。

死にまつわるあれこれが怖いのではなく、老いることによって現状を維持できなくなることが怖いだけという場合。
このパターンでは、そもそもの死が全く問題にならない。

なぜなら、老いは死に向かうプロセスというよりも、生きることに伴う現象だから。
老いたくなければ今すぐ死ねばいい!
という結論が、あくまでも論理的には成り立つわけだから、実は「老い」と「死」とは表裏一体ではない。

死ねば老いない。
このように、死と老いとが同時に成り立たない状況が想定できるということは、両者は全くの別物だ。

一方で、「生きている限り老いる」「老いを避けるには生きることをやめるしかない」とも言える。
ということは、「老い」はむしろ「生」と表裏一体の現象だ。
結論自体は至極当たり前のことだが、背理法なんかを使ってみて論理的に確認し直すと、こうなる。


【老いるメリットを見つけ出せばいいだけ。自殺は痛いし】

よって、老いることを恐れているだけの人は、これを自覚するだけで、無駄に背負ってしまっている死の恐怖からは解放されることができるだろう。
それでも老いに対する恐怖は残るわけだが、これについては、心理学などこねくり回して、老いることのメリットでも学べばいいのではなかろうか。

老いが今後の人生にデメリットしかもたらさないと思い込んでいるからこそ、老いは恐怖の対象に躍り出ている。
であれば、メリットさえ知っていればこれを中和できること請け合い。

老いを止めるために自殺に踏み切るという論理を構築&実践するより、幾分か楽チンだと思うのだ。
死への恐怖の理由って、痛みがあると思うから生じてしまうわけだけど、自殺って大半は痛みを伴いそうだしね。


【私たちは死の恐怖を知らない】

そもそもな話、進化を生き残ってきた特徴であれば、ストレスにすらメリットがあるものです。
本当に私たちが死そのものを恐れることができているなら、祖先がとっくに死を克服してるはず。
それができていないということは、あくまでも私たちは自分個人の存在の消失を恐れてセックスに勤しんできたわけではなく、子孫の断絶というもっと大きなスケールに対する恐怖からセックスに勤しんできたはずですね。

このように考えても、私たちが自分が死ぬことを恐れているかどうかは、だいぶ怪しいものです。
死んだ後どうなるかは誰にもわからないわけで、死を経験済みの人類もいやしない。
人間は知っているものしか認識できない生き物だから、知りようのない死の体験を恐れているわけもなく。


【死の恐怖にどう向き合うか?】

ここまで考えれば、私たちは死に怯えて生きる存在じゃないことがはっきり分かるかと思います。
それでも恐怖は残るのでしょうが、自分が恐れていたものが「死」という扱いようのない抽象的な代物ではないことが分かっただけでも、かなり恐怖の克服に近付いたと言えるでしょう。

先にも述べたように、人間は知っているものしか認識できません。
従って、恐怖の対象も知っているか、少なくとも知っていると思っていることだけです。

これは大きな強みと言えましょう。
知らないものは扱いようがありませんが、知っているものなら扱いようがあります。
知っているつもりのものは知らないことを自覚するだけです。

こうやって自分の恐怖心の対象に輪郭を与えていけば、それは避けようのない運命から、単なる一命題に落とし込めます。
要するに、考えをこねくり回して乗りこなすべき形あるものになるわけですね。

運命に操縦席や操縦桿は無いらしいですが、命題にはいつも切り口というか乗り込み口が作れて、それさえやれれば操縦席も操縦桿も手に入ります。

ありもしない死の恐怖で「悩みオナニー」をすることはやめて、現実世界を生きるきっかけにしてはいかがでしょうか。

終わり。

【例えば不登校】解決しようとするから問題になる【解消すればいいだけ】

世の中には、解決しようとするから問題になる性質の事柄が意外とたくさん転がってます。
「問題」と「解決」とがあまりにも表裏一体みたく語られがちなために、多くの人がこのことに気付いてないかもしれません。


問題にはそもそも言うほど問題じゃないことがよくあります。

主に2種類あるかと思います。

①無理に解決しようとするから問題になってる。

②別に問題じゃないことに気付いていないだけ。

ここから先は、これら2つを不登校を例にとって考えようと思います。

 


〈例〉不登校

 

【①自分のために通わせようとするから問題になるパターン。】

 

本人が通いたくない理由を持っているのに、それを上回って「通うべき理由」に値するものを無理矢理見つけ出そうとするから、そんなものは存在しないという当たり前の現実が問題に見えてきてしまうだけですね。

当事者の気持ち以上の理由なんてあるわけないのにね。
ありもしないものを第三者の立場で探し回ってる大人たちは馬鹿ですよ。
現実は問題じゃなくて現実に過ぎません。
問題には解決がワンセットで語られるように、変えられない事実はそもそも問題とは言いません。
変えられないものを無理やり変えようとしているとき、本当の問題はその状況ではなく、こんな当たり前の事実が盲点になってる自分の頭の具合でしょう。

こういう場合は、第三者が第三者の立場で、当事者が学校に通うことを強要したい理由を探すのものではありません。
当事者が学校に通う必要性を、当事者の立場に寄り添って考えてあげればいいだけです。
当たり前ですよね。
ここで変えるべきは「当事者の気持ち」なわけですから、当事者以外の事情を語り聞かせても意味がありませんからね。

自分のために相手の行動を変えさせようとするなど、存在しない因果関係のでっち上げも同然ですよ。
「あなたが健康になると、地球の裏側の真っ赤な他人も健康体になるの!ただし、理由は特にないんだけどね(笑)」と謎のプレゼンテーションをかますようなもの。

悲しみに暮れている時の人間は分析的な思考力が向上します。
このレベルの馬鹿丸出しお為ごかしは透けて見えてしまうことでしょう。
そうなれば、子供は二度とあなたを味方だと思ってくれないでしょうから、絶対に自分のために子供が学校に通うメリットをプレゼンするような馬鹿丸出しな真似はしないように!
自分のメリットしか思いつかない間は、そんな自分のためにも口をつぐみましょう。
この場合の「自分のため」の正しい使い方は、ここにしかありませんから。


【②学校に通わなきゃいけないわけでもない。】

そもそも、解決の方針が間違った前提に基づいてる場合もありますね。

不登校を「問題扱い」する場合で言えば、学校に通うことは権利であるという事実が忘れられています。
代わりに、学校に通うことは義務だと思い込んでる大人が多いのだとか。

問題扱いと言ったのは、こういう理由です。
学校に通うことは子供が国から与えられた権利ですよね。
学校に通って教育を受けたがっている子供を学校に通わせてやることが、国家が憲法で負った義務です。
教育を受けることは権利ですから、当然ながら、教育を受けないこともまた権利です。
これを大人が寄ってたかって無理やり学校に押し込めようとしたなら、それこそ人権侵害で違憲沙汰でしょうね。

これを何故だか一部の人が、「子供は学校に通う義務を負っている」と思っているのだとか。
こういう人の場合、①よりも対応は簡単ですね。
問題の解決は諦めて、そもそも問題など無かったことに気付けばいいだけですから。
これを問題の「解消」と言います。

教育を受ける権利を行使せずとも、本でもインターネットでも学べばいいでしょう。
インターネットのお陰で誰を教師にするかを選べるようになったことを考えると、「不登校は教育上の問題である」という発想自体がだいぶ時代遅れです。
少なくとも、教育上の問題ではありません。

百歩譲って人間関係の問題ではあり得るかもしれません。
しかし、それでも百歩譲ればです。
そもそも、学校という逃げ場のない空間に閉じ込めて、ずっと同じ人間との関係を強要されれば、人間関係に問題を抱えないこと自体が、爪弾きを喰らわないための課題になるのは必然的。
そうなれば、行動力のある子はいじめに抑圧の吐口を見つけ出すでしょうし、消極的な子は抑圧のために心を病むでしょう。
いじめと不登校とは、いじめっ子といじめられっ子との直接的でわかりやすい対応以上に深いところで表裏一体なのですよ。

それに、そもそもな話、学校という行動制限の付いた限られた人数しかいない中で、良好な関係を築ける相手が100%見つかる保証もありません。
いわゆるリア充非モテとの対比みたく、人間関係の勝者と敗者とが織りなすスクールカーストなるものが発達する場合がありますが、そこで偽りの勝敗感覚に一喜一憂するのもバカバカしい話です。
自信過剰と自信過少。どちらにしても社会的な病人を生み出すだけでしょう。
社会人の人間関係は必ずしも椅子取りゲーム(ゼロサムゲーム)じゃないですからね。

今時、SNSを通じて知り合うことだってごく日常的です。
騙す人の存在をSNSの危険性と絡めてくる論調がありますが、リアルにも騙す人は幾らでもいますよね。
リアルなら安全だという勘違いを擦り込む弊害しかありませんから、あの手の論法には百害あって一利なしですよ。

安全は場所に帰属される形のあるものではなく、自分の選択に帰属される仕組みみたいなものです。
選択次第でどこでも安全だし、どこでも危険です。
同じ教室に、安全を勝ち取ったいじめっ子と虐げられる側に回ったいじめられっ子とが同居してるようなものですね。
騙す人も騙される人もどこにだっているのだから、自分が騙す側にならないことに気を使うのが一番正しいことにそろそろ気付きましょう。

どんなに快適な環境を与えても、飼育下の動物では自然界の動物の寿命を超えないという話があります。
それくらいに、逃げ場のない環境というのは、生物にとって不自然で生きがい探しのできない監獄そのもの。
学習環境を選べる時代背景も手伝って、通わずに済むなら学校には通わないに越したことのない時代かもしれませんよ。

自分なりの学び方をカスタマイズできる時代。くらいに考えておくのが精神衛生上健全でしょうね。


取り止めのない話を聞いてくださり、ありがとうございました。

【最短最速】使える英語力への5ステップ学習法【論理的に解説】

【はじめに】


英語学習を始めようとは思っているものの、どこから手を付けていいか分からない方は多いでしょう。

間違った順番で学習しては、成果が出るのに時間が掛かってしまいます。最短最速で確実に「使える英語力」を伸ばすためにも、守るべき学習順序を知っておきましょう。

理想的な順序は以下の通りです。


①発音

②文法

③リスニング

④リーディング

⑤ライティング


なぜこの順番なのか?各項目にフォーカスして解説します。

すでに英語学習がだいぶ進んでいる方であっても、この内容を知らずに伸び悩んでいる人は必ずいます。
英語を指導する立場の方にとっても有益な情報になるはずです。

それでは、はじめましょう。

 


【もくじ】


①発音から入る【何をおいても先ずは発音!】

②文法を把握する【文法は単語と違って限られてる】

③リスニングで抑揚を知る【発音できない言葉は聞き取れません!】

④リーディングで脳内再生できるようになる

⑤ライティングでこれまでの全てを発揮する

【スピーキングは実践で磨く】

【単語学習のタイミングは発音と文法の間】

【今回のまとめ】

 


①発音から入る【何をおいても先ずは発音!】


人間は発音できない文字列をそう簡単に記憶することはできません。

言語は文字ではなく音から誕生しているものです。文字が先に発明されて、その後で音が付けたされたわけではありません。
人間にとっては、文字言語よりも音声言語に触れてきた歴史の方が圧倒的に長いわけです。

ですから、私たちの脳は視覚から受け取る文字情報よりも、聴覚から受け取る音声情報に対して敏感にできています。
したがって、読み方がわからない言葉を覚えることがとても苦手です。

日本語でも経験があるのではないでしょうか?
例えば、読める漢字はすぐに覚えられる一方で、読み方がわからない漢字はなかなか覚えられないことも、同じ理由に起因しています。

英語などの外国語を学ぶ時にも、発音から学び始めないと後が大変です。
よく使われる定型文の暗記はもとより、単語を暗記するのにも苦労することでしょう。

先ずは、簡単な単語を通じて、発音記号と対応させながら口の形や音の出し方を把握しましょう。
発音用に特化した教材では、サンプルに使われている単語に使用頻度の低いものは含まれませんから、この時に必要最低限の単語も知ることになります。いわゆる「基本単語」ですね。

 


②文法を把握する【文法は単語と違って限られてる】


発音と基本単語を身に付けたら、次は文法学習に移行します。

発音は限られたパターンしかありませんし、基本単語は今後も自然と触れる機会があるでしょうから、気付けば覚えてしまっているものでしょう。
なので、発音を最初に済ませておけば、もう後戻りする必要はありません。

文法学習にも同じことが言えます。
文法は単語の配置をパターン化したものですから、発音パターンと同じように、把握するべき数は限られています。
であれば、発音と同じように、早めに習得しておけば後戻りの必要がなくなります。

それに、発音学習のプロセスを通じて基本単語が身に付くのと同じで、文法学習を通じて文章の読み方が身に付くことになります。
早めにこの頭の使い方が身に付いていると、英文に触れるたびに文法知識が呼び覚まされますから、これ以降は、英語に取り組んでいるだけで勝手に文法の復習をやっている状態がデザインできます。後々の勉強にとって、一石二鳥は確実ですね。

しかも、この時点で発音学習は済んでいるわけですから、文法学習以降の全てが発音の復習にもなります。これで一石三鳥です。

 


③リスニングで抑揚を知る【発音できない言葉は聞き取れません!】


ここは発音学習の成果を文章へとつなげる段階に当たります。

こう言うと「発音の直後にリスニングをやるべきだったのでは?」と思う方もいるかと思います。
安心してください。全く問題ありません。

そもそも、個々の単語にアクセントがあるように、文章にはイントネーションがありますよね。このイントネーションは何によって決まるのでしょうか?
答えは「文法」です。
文法で定められた語順には、話者がどこを強調したいのか?話者が何を伝えるための語順なのか?といった情報が組み込まれています。

つまり、英文がどのような抑揚で発声されるのか?という点は、文法なしに理解することができないのです。逆に、文法を済ませたうえでリスニングに取り組めば、なぜそこにイントネーションなのか?なぜそこで文章が区切られるのか?などが直感的にわかるわけです。

要するに、リスニングは発音と文法との組み合わせで成り立ってると言えます。だから、リスニングに至る道として、先に発音と文法がセットで身に付いている必要があるのです。

それに、人間は知らない音からできた言葉は聞き取ることもできません。
①発音から入る【何をおいても先ずは発音!】の項目で「発音できない言葉は覚えられない」といいましたね。この話も同じです。
自分の口で発音を再現できない言葉を聞き取る能力は、人間にはありません。自分で再現できる音だからこそ、リスニングを通じて「それがどんな文脈でどんな風に発声されているのか?」を「自分の体感」に置き換えて理解できるわけです。

こういう意味でも、発音の仕方を体で覚えて、単語と単語の音のつながりを文法から推測できる下地を作っておくことには、明確な役割があるわけですね。

 


④リーディングで脳内再生できるようになる


文法を理解した頭でリスニングを制覇したなら、発音も抑揚もわかってるわけですから、英文を自然に流暢な発音で脳内再生できるはずです。

なので、ここがリーディングの出番になります。

ここまでに身に付けたスキルを活かしながら英文を読むことで、発音・抑揚・文法 すべての復習が自動で成り立つわけです。

逆に、発音・文法・リスニングをすっ飛ばしてリーディングに取り組んだとしたら、日本語のように流暢に脳内再生できませんから、辛過ぎて続かないでしょう。

これまでのすべてがリーディングの下準備として機能するためにも、ここにリーディングを入れるのがベストです。また、ここでの脳内再生トレーニングが、次のライティングの段階に活きてきます。

 


⑤ライティングでこれまでの全てを発揮する


ライティングがリーディングの後に登場する理由は、リーディングの脳内再生を書き出したものがライティングだからです。

誰かに読んでもらうための文章を書いた経験がある方なら分かるかと思いますが、伝わる文章を書くときには、想定読者との脳内会話が欠かせません。会話のメンタルリハーサルを通じて、私たちは他人が抱く疑問のポイントなどを絞っていき、これを一つひとつ潰しながら、取りこぼしのない文章構成をデザインします。

上記はあくまでも「人に伝えるための文章」の場合ですが、畢竟するに、それ以外の目的を持った文章なんてあるのでしょうか?
自分のためのメモ書きや覚え書き・備忘録といったものも、突き詰めれば未来の自分に「伝えるため」に書いてます。

英文ライティングも一緒ですよね。伝えることを目的に書くからこそ、会話のイメージに近い脳内生成・自問自答のようなアプローチは欠かせません。

これを効率良くやってのけるためには、リーディングで培った自然で流暢な発音イメージが必要不可欠でしょう。というよりも、ここまでの4ステップの内、どれが欠けても成り立たない技能と言えます。
よって、最後はライティングでこれまでの全てを発揮する段階なのです。

 


【スピーキングは実践で磨く】


リーディングさえできれば、英語の最大の強みである「膨大な最新情報へのアクセス」は達成できます。
ですから、ライティングで書き手側に立てるようになった段階で、大半の日本人には十分過ぎる英語力がつきます。
この状態でスピーキングの練習に移行すれば、誰よりもスピーディにネイティブのような発話感覚がつかめるはずです。

とは言え、スピーキングはやはり実践を通じてスキルを高めていくのが最適です。
そこで、ここまでの5ステップをこなした上で、最終段階として英会話スクールなどを利用することをおすすめします。
外国人の友人や恋人が欲しかったり、ビジネス英会話のリハーサルがしたい方には、やはりオンラインの英会話スクールがうってつけです。

英会話スクールに通うにあたっても、ここまでの5ステップは決して忘れないでくださいね。例えば、留学でキチンと成果を出して帰ってくる英語学習者というのは、留学以前にちゃんとこれらの段階を踏んでいるものです。
オンラインの場合も、もちろん同じです。意義のある自己投資にするためにも、確実な下地を作っておきましょう。

 


【単語学習のタイミングは発音と文法の間】


ここまでの英語学習順序の中に、わたしは敢えて「単語学習」を含めませんでした。
理由は単純で、単語学習には終わりがないからです。

発音や文法のパターンがおよそ有限であるのに対して、単語は未来にも生まれるものですから、その数は事実上無限です。ですから、単語学習には終わりがありません。

とはいえ、単語知識なしに使える英語力は手に入らないことも事実です。
ネイティブであれば、日本人が読書などを通じて自然にボキャブラリーを増やすように、英語の本を読んだり洋画を観たりして自然に増やせばいいのでしょう。
しかし、外国人として「スキルと呼べる英語」を身に付けるために、そんな時間は掛けられませんよね。

ですから、私なりの回答を用意するなら、単語学習は「発音学習と文法学習の間」に入れ込むのが最適かと思います。文法学習と並行できると尚よいでしょう。

3つ理由を説明します。


・発音がわからない単語は覚えられない

・文法学習とセットだと、単語の恩恵がわかりやすい

・リスニング前にボキャブラリーを稼いでおきたい


・〈発音がわからない単語は覚えられない〉


発音を身に付けた後に単語学習を持ってきた方がよい理由は、発音方法がわからないまま単語学習をやっても覚えられないからです。


・〈文法学習とセットだと、単語の恩恵がわかりやすい〉


文法学習との並行をお勧めする理由は2つあります。

1つ目は、単語がわからないことで苦労する初めてのタイミングが「文法学習」だからです。

文法学習の段階で、学習者は初めて「英文」というものに触れるはずです。と同時に、ここで初めて単語の意味が分からないもどかしさを感じることになります。
この「もどかしさ」が単語学習に対するモチベーションになる。というのが1つ目の理由です。

文法学習と並行させることで、英文を読むにあたっての「単語を知っていることの有り難み」も感じられることでしょう。


・〈リスニング前にボキャブラリーを稼いでおきたい〉


文法学習との並行をお勧めする理由の2つ目です。

2つ目は、次のリスニングの段階に進むにあたって、なるべく多くの単語の音に慣れている方が都合がいいからです。

いくら英語の発音が聞き取れたとしても、大量の意味不明な単語が怒涛の勢いで流れ込んできたら、誰だって流石にやる気をなくします。

それに、私たちが英語のリスニングに使う教材の多くは、アカデミックな内容を多分に含んでいます。文法的には単純な文章構造である一方で、単語を知らないと全く太刀打ちできない代物ばかりです。

こうした背景から、リスニングに入る前にボキャブラリーを稼いでおいた方がいい。というのが2つ目の理由になります。


・〈単語は必要になったら一気に覚える〉


とどのつまり単語学習には終わりがないものですから、発音と文法の間に単語学習を入れ込んでみたところで、再びまとめて単語を入れ直す必要性が巡ってくることは間違いありません。
特に、リーディングとライティングの段階で必要性を実感する人は多いでしょう。

ですから、「学習者が必要性を感じた時点で単語集を手に取る」というのが実は単語学習の最適解と言えます。

 


【今回のまとめ】


①最初に発音をやっておくと、その後の学習全てが発音の復習になる。

②次に文法をやっておくと、その後の学習の全てが発音と文法の復習になる。

③次にリスニングをやると、その後の学習の全てが発音と文法、リスニングの復習になる。

④次にリーディングをやると、その後の学習の全てがこれまでの復習になる。

⑤最後のライティングは、これまでの全ての学習の復習になる。


という具合に、この順番を守るだけで英語学習の効率が雪だるま式にアップしていきます。投資で言えば「レバレッジが利いている状態」ですね。


そして、スピーキングについても、5ステップを守っていれば下地は確実に出来上がります。
単語学習には終わりがありませんが、発音を学んだ後、できれば文法学習と並行しましょう。


考え方の流れとしては、


①言葉なのだから音から入るべき。よし、発音をやろう!

②発音ができたから、音つながりでリスニングを練習したいところだけど、文法なしには抑揚の役割が掴めない。それなら文法が先だ!

③音も文法もわかって、ようやくリスニングが効果的にやれるぞ。

④リスニングで発声の流れには慣れたから、音なしの文章になっても問題なく脳内再生可能。というわけでリーディングへ。

⑤英文読解を通じて書き方も大体わかった。じゃあライティングで書き手側の視点を知ろう。

⑥座学でやれるすべてを終えた今、いざスピーキングで実践へ!


こんな具合に理解すればわかりやすいのではないですかね。

ではまた。

【実体験】グルテンフリーで体調が劇的に改善された話【個人差あり】

こんにちは。

あなたはグルテンフリーという食べ方を知っていますか?
言葉の通り、その意味は「グルテンを食生活から抜く」ということです。

グルテンというのは、小麦に含まれるタンパク質の一種で、これが人体に悪さをしている場合があるために、グルテンフリーという発想が生まれました。

最初に指摘しておきますが、グルテンフリーの効果には個人差があり、そもそもグルテンを摂取しても身体に何の問題も起こらない人もいます。一方で、グルテンに毒されてしまっている人がグルテンフリーを実践した場合、わたしのように劇的な改善結果が得られることは請け合いです。

わたしの場合は、中学時代から大学時代まで、長きにわたってグルテンと戦ってきました。
はっきり言って、グルテンを摂っていたころのわたしと、グルテンをやめた後のわたしとでは全くの別人です。人生自体が変わったといってもいいでしょう。

とは言え、自分の体に小麦製品がまったく合っていないことを自覚したのは、大学を卒業した後でした。
この事実に気付くまでにどれだけ多くを失ったかは測り知れません。

栄養学を学び始めるまでのわたしは、日々の体調不良について、以下のように考えがちでした。


・寝不足かな

・疲れてるのかな

・仕事のストレスが原因かな


一方で、これらをどんなに改善したところで、一向にわたしのクオリティ・オブ・ライフが上向いてくる気配はありませんでした。
そもそも、どんなに「健康っぽい」生活習慣を心掛けても、なぜか眠れないし疲れが取れないし、募る不安感は消えてくれないのです。

しかし、今となってはそれも当たり前のことだったとわかります。努力の方向性が間違っていたのです。
栄養学に詳しくなって、グルテンを食事から抜いてからというもの、それまでの数々の問題が嘘のように消え去りました。もっと早く気づければ、掛け替えのない学生時代がもっと有意義に過ごせたことだろう、とは今更な寸感です。

わたしと同じ後悔をあなたにはしてほしくなくて、本記事を書いています。
上にまとめた3つの心境に心当たりのある方は、ぜひとも最後まで読んでください。

 


グルテンフリーで改善される4つの不調】


先に改善結果から伝えますと、グルテンフリーで得られる成果は主に以下の4つです。


・皮膚トラブルの解消

・メンタルの安定

・疲れにくい体に

・消化管の正常化


これらについて説明する前に、グルテンがどんな風に人体に悪さをするのか知ってほしいと思います。

 


【わたし達の胃腸はグルテンを消化できない!?】


人類が昔に育てていた小麦と違って、現在流通している小麦の多くは、人間の消化管では適切に消化できません。

品種改良の技術が普及するよりも前に育てられていた小麦は、もちろん自然界にもともと存在した小麦です。これについては、人類の消化管で十分に対応が可能です。

一方、品種改良の技術が生まれてからというもの、人類は小麦の生産性を上げるために、天敵や環境の不利をものともしない「強い小麦」を作るようになりました。
現在流通している小麦の多くは、そのようにして作られた「遺伝子組み換え小麦」というべきものです。

この品種改良が単に「簡単に育つ強い小麦」を生み出したのなら大成功だったのですが、虫や動物に食べられてしまわないように遺伝子を改造した小麦は、実は人間にとっても食べるに値しない「消化不能のタンパク質」を持った植物になってしまっていたのでした。

消化できないのに胃腸に入ってきた小麦タンパク(グルテン)は、人体にとって病原菌やウイルスと同じ、いわば異物ですから、体外に排出しようとしますよね。
その結果、過剰な免疫反応によってさまざまな体調不良がおこるというわけです。

 


【4つの不調の原因と改善を解説】


先に挙げた4つの改善内容について、グルテンと絡めた原因説明とセットで解説します。
順番は以下の通りです。


・皮膚トラブルの原因と解消

・不安定なメンタルを安定させる

・疲れやすい体から、疲れにくい体に

・お腹の不調を正常化する


それでは始めましょう。


・〈皮膚トラブルの原因と解消〉


グルテンの悪影響が出てる人で一番多いのは、皮膚トラブルです。

皮膚というのは、そもそも髪の毛やツメと同じで、体内に侵入した異物を外に出すための、一方通行の出口です。
ですから、異物を取り込んでしまったとき、最初に皮膚トラブルが襲うのは自明の理と言えます。
逆に言えば、グルテンフリーで最初に効果が表れる場所でもありますから、皮膚トラブルの改善は自分にグルテンフリーが合ってるかどうかを確かめる一番簡単なバロメーターになります。

具体的には、ニキビや肌荒れ・吹き出物や乾燥肌といったトラブルを抱えることになります。

皮膚の上からいくら薬を塗ってもこれらの症状が改善されない場合、そもそもの「体内に入れているもの」に原因があると考えるのが自然です。

また、皮膚は体外からのウイルスや細菌の侵入を防ぐバリアですから、「薬を浸透させて解決する!」というアプローチは最初から分が悪い賭けだと考えましょう。

わたし自身、ニキビと肌荒れに悩まされていましたが、薬を塗っても治らなかった症状のすべてが、今ではなかったことのように消えています。


・〈不安定なメンタルを安定させる〉


グルテンの影響の中で、皮膚トラブルの次にわかりやすいのは、うつや不安症状などのメンタル面の悪化でしょう。

グルテンはまともに消化されずに腸内に残り、腸の内壁を傷つけて体内に侵入。血流にのって全身の臓器に異物として運び込まれます。
その結果、脳という最も精緻なシステムが一番大きなダメージを受けます。精密機械ほど簡単に壊れるのと同じですね。

こうなると、脳内の免疫システムが、グルテンを取り込んでしまった自分自身の細胞を攻撃し始めます。そして、正常な脳機能が失われて、うつや不安症状が引き起こされるわけです。

というのがメカニズムであるなら、異物であるグルテンが取り除かれれば、脳機能が正常化されるのは必然です。

わたしの場合は、不安症状や睡眠不足に悩まされていました。
どんなに体が疲れていても、どんなに音と光をシャットアウトしても、なぜか眠れないのです。
体内の異物と免疫が戦い続けていれば、体はリラックスモードに入れませんから、異物との戦いで疲弊しているにも関わらず、精神が興奮しっぱなしでまったく眠くならないという状態です。

睡眠は脳機能と一番密接にかかわる活動ですから、この不眠症状に心当たりがある人は多いでしょうね。


・〈疲れやすい体から、疲れにくい体に〉


現代の科学的知見によれば、疲労の原因は肉体的な疲れではありません。すべての疲れは精神疲労であることがわかってます。

脳は手抜きしたり楽したりが大好きな臓器です。
例えばの話、あなたの脳が「このペースでエクササイズを続けてると、3時間後にはクタクタだな」などと感じたとしましょう。
するとわたし達の脳は、「よし、なら今の内から疲れを感じさせて、身体がエクササイズをやめるように仕向けてやろう」などと考えるわけです。
こうして脳は身体に「疲れたふりをしろ!」という命令を出します。それをわたし達は肉体の限界だと勘違いします。

これが疲れの正体です。

身体に異物が入って免疫が一生懸命に戦い続けている状態というのは、脳に言わせれば「エクササイズし続けてる」ようなものです。
こうなれば、先の話と同様に、脳はずっと疲れを「演出」し続けなければなりません。

これがグルテンと「消えない疲労感」の正体です。

異物が体内から消えてなくなれば、体内での免疫戦争は終結しますから、脳は安心して「疲労感の演出」をやめることができます。


・〈お腹の不調を正常化する〉


消化管の中でも、小腸はもっとも長さのある臓器ですから、もっとも長時間、口から入った異物に晒される器官とも言えます。これが何のダメージも受けないわけがありませんよね。

具体的には、異物に晒され続けた腸はリーキーガットという症状に陥ります。
リーキーガットというのは、腸の内壁に細かい穴が開いてしまっている状態を指します。

例えるなら、体内と体外との仕切りであるバリア機能がザルになってしまっているようなものです。

こうなると、グルテン以外にも、化学物質や植物がもともと持っている毒素なども体内にダダ漏れになりす。

皮膚トラブルもメンタルの不調も、消えない疲労感も、すべてのきっかけはこの段階にあります。

それはさておき、当然のことながら、ダメージを受けた小腸自体にも不調が起こります。
それが下痢や腹痛などの症状です。

バリア機能が損なわれているところにどんどん食べ物が送り込まれてくれば、これを取捨選択して栄養補給しているヒマはありません。
おまけに、穴が開いて消化吸収の性能自体が落ちてますから、ダブルパンチで消化吸収効率が落ちている状態ですよね。

そこに普段通りの1日3食がおしよせてくれば、中途半端な消化具合だとしても、どんどん外へ外へと送り出すしかありません。
これが下痢や腹痛としてわたし達を苦しめるわけです。

わたしの場合、仕事や学校のために早起きしたときには、毎日のように腹痛を起こして現地のトイレで下痢に苦しむというサイクルを繰り返してました。
消化管は寝ているときに活発に働きますから、早起きした分、消化吸収の時間が足りなくなっていたのでしょうね。

 


グルテンフリーが効くかどうかは、やってみるまでわからない!】


このように、わたし達のクオリティ・オブ・ライフに様々な恩恵をもたらしてくれるグルテンフリーですが、今のところ、自分にグルテンが合ってるかどうかをチェックできる明確な検査方法はデザインされていません!

ですから、先ずは実際にグルテンを食生活から抜いてみるしかないのが現状です。
一方で、世の中にはグルテンを平気で消化吸収してしまえる強靭な胃腸を持ってる方もいるようです。うらやましい限りですね。

グルテンフリーは、効果がある人ならば2週間足らずで必ず実感できる効果が顕れます。
わたしの場合は、毎日のように食パンを食べる生活をしていた時期に、いきなりグルテンフリーを実践したので、そのギャップのおかげか、わずか4日目で体調がよくなったのを感じられました。

どうですか?変化を待つだけでいいのですから、とても簡単でしょう。
というより、今後も続く数十年の人生の内、たった2週間のグルテンフリーで、その後の人生すべてが劇的に改善されるかもしれないわけですから、やらない理由がないと思います。お金も一切かかりませんしね。

わたし自身、この考え方でグルテンフリーを実践して、毎日のように「あの時の決断は間違ってなかった!」とあの日の自分に感謝する毎日です(笑)。

ではまた。

失敗を咎めてはいけない理由。

【はじめに】

世の中には「怒る」と「叱る」を区別したがる人がいますよね。

わたしに言わせれば、「怒る」と「叱る」とに全く違いはありません!

なぜなら、どちらも失敗を咎めている点で同じであり、咎められた側に生じる心理も同じだからです。

これからは、失敗を咎めない人間になりましょう。


【失敗を咎めると挑戦しない人間になります】

失敗を咎めることの決定的なダメポイントは、相手の「挑戦する意志」を挫いてしまうことです。

親が子を叱りつける場面を想像するとわかりやすいでしょう。

怒られたり叱られたりすると、子供は「失敗はいけないことなんだな」と学習します。
そして、そもそも失敗したのは新しいことに挑戦したことが理由ですから、挑戦そのものを「いけないこと」と捉えるようになります。

これは大人でも同じですよね。
失敗して上司にこっぴどく叱られた日には、同じタスクには二度と取り組みたくなくなりますよね。

ところで、よく「怒る」と「叱る」とを区別したがる人がいますが、ここまで読んでお分かりの通り、「挑戦する意思を挫く」という点で、両者を区別することに意味はありません。

どちらも同様に「失敗を咎めてしまっている」とすべきです。
「怒る」を「叱る」とするのは、単なる言葉の綾に過ぎません。
両者を区別したがる人は、怒ってる自分の醜さを隠すために、「叱ってるんだ!」と、それこそ醜い言い訳をしてるだけです。
もたらされる結果から見れば、怒っても叱っても同じことです。

物事はその結果から判断すると、中立に位置付け&評価できます。


【失敗の原因は価値観にあります】

失敗する理由というのは、必ずしもやり方が間違っていることが原因とは限りません。

失敗する原因の多くは、価値観が間違っていることに起因しています。
懸命な価値観を持たない人は、最適なやり方を頭ではわかっていても、あえてそれ以外の楽な方法を選んでしまうものなのです。

例えば、防犯意識に関する標語に「暗い近道よりも明るい回り道」というものがありますね。
これがまさしく「頭でわかっていても価値観が追い付いてない状態」の典型です。
他にも、倫理観が技術力に追い付いていない状況にも似ています。

つまり、私たちはどんなに正しい「正解の仕方」を知っていても、賢明な価値観が伴っていないためにそれを選べないことが多々あります。
失敗の原因は必ずしも「戦略が無いこと」ではありません。


【失敗は価値観を修正するチャンス】

失敗が必ずしも「能力の程度」によらないことはお分かり頂けたでしょう。
では、わたし達は失敗をどのように扱えばよいのでしょうか?

答えは「価値観の修正」になります。
これについてお話ししましょう。

自己啓発関連の本や成功者の伝記をよく読む方ならわかるかと思いますが、成功者の多くは「当たり前のこと」ばかり言ってますよね。
凡人が聞いて「当たり前だ」と感じるようなことで彼らが成功してるのだとしたら、失敗が失敗のままで終わってしまう理由は、その「当たり前」ができていないことにあります。

当たり前なのにできない理由はなんでしょうか?
もうわかりますよね。
価値観の問題です。
具体的には「自由から逃げようとする価値観」でしょうか。

自由というのは大変に辛い生き方です。
自由とは何者にも縛られないことではなく、何か譲れないものを持つことですよね。
それを貫き通すためには、結果として「縛られない選択」も必要になります。

それは例えば、学校に通わずに好きなことに没頭することだったり、就職しないで自分なりの社会貢献を突き詰めることだったり、様々かと思います。
一方で、それら全てに共通して言えることは、決意と信念の無い人物には決してできない生き方である。ということでしょう。

自由に生きることは庇護を捨てることです。
三者から見た表面的には、言葉の響きほど美しい生き方ではありません。
自由は本人の体感としてしか存在しません。

結局のところ、失敗を失敗で終わらせることなく、成功まで持っていける価値観というのは、このような「自由の厳しさ」を受け入れる価値観ではないでしょうか。

だとしたら、失敗が失敗に終わりそうな時に、わたし達ができることというのは、転ぶ前とは違う方向に向かって、何度でも立ち上がって歩き始めることです。
そのために、失敗した自分を「よく挑戦した!」と褒めてやることです。

他人が失敗した時も同じです。
失敗したということは、裏を返せば現状の外に出ようともがいたということです。
失敗した時こそ「よくやった」と、その挑戦した背景を称えてやるべきです。

こうすることで、失敗を咎めた場合に挑戦が「いけないこと」として学習されるのとは逆に、挑戦が「価値のあること」として学習され、価値観が少しづつ塗り替えられて行くはずです。