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他人を省いて自分を生きる

【例えば不登校】解決しようとするから問題になる【解消すればいいだけ】

世の中には、解決しようとするから問題になる性質の事柄が意外とたくさん転がってます。
「問題」と「解決」とがあまりにも表裏一体みたく語られがちなために、多くの人がこのことに気付いてないかもしれません。


問題にはそもそも言うほど問題じゃないことがよくあります。

主に2種類あるかと思います。

①無理に解決しようとするから問題になってる。

②別に問題じゃないことに気付いていないだけ。

ここから先は、これら2つを不登校を例にとって考えようと思います。

 


〈例〉不登校

 

【①自分のために通わせようとするから問題になるパターン。】

 

本人が通いたくない理由を持っているのに、それを上回って「通うべき理由」に値するものを無理矢理見つけ出そうとするから、そんなものは存在しないという当たり前の現実が問題に見えてきてしまうだけですね。

当事者の気持ち以上の理由なんてあるわけないのにね。
ありもしないものを第三者の立場で探し回ってる大人たちは馬鹿ですよ。
現実は問題じゃなくて現実に過ぎません。
問題には解決がワンセットで語られるように、変えられない事実はそもそも問題とは言いません。
変えられないものを無理やり変えようとしているとき、本当の問題はその状況ではなく、こんな当たり前の事実が盲点になってる自分の頭の具合でしょう。

こういう場合は、第三者が第三者の立場で、当事者が学校に通うことを強要したい理由を探すのものではありません。
当事者が学校に通う必要性を、当事者の立場に寄り添って考えてあげればいいだけです。
当たり前ですよね。
ここで変えるべきは「当事者の気持ち」なわけですから、当事者以外の事情を語り聞かせても意味がありませんからね。

自分のために相手の行動を変えさせようとするなど、存在しない因果関係のでっち上げも同然ですよ。
「あなたが健康になると、地球の裏側の真っ赤な他人も健康体になるの!ただし、理由は特にないんだけどね(笑)」と謎のプレゼンテーションをかますようなもの。

悲しみに暮れている時の人間は分析的な思考力が向上します。
このレベルの馬鹿丸出しお為ごかしは透けて見えてしまうことでしょう。
そうなれば、子供は二度とあなたを味方だと思ってくれないでしょうから、絶対に自分のために子供が学校に通うメリットをプレゼンするような馬鹿丸出しな真似はしないように!
自分のメリットしか思いつかない間は、そんな自分のためにも口をつぐみましょう。
この場合の「自分のため」の正しい使い方は、ここにしかありませんから。


【②学校に通わなきゃいけないわけでもない。】

そもそも、解決の方針が間違った前提に基づいてる場合もありますね。

不登校を「問題扱い」する場合で言えば、学校に通うことは権利であるという事実が忘れられています。
代わりに、学校に通うことは義務だと思い込んでる大人が多いのだとか。

問題扱いと言ったのは、こういう理由です。
学校に通うことは子供が国から与えられた権利ですよね。
学校に通って教育を受けたがっている子供を学校に通わせてやることが、国家が憲法で負った義務です。
教育を受けることは権利ですから、当然ながら、教育を受けないこともまた権利です。
これを大人が寄ってたかって無理やり学校に押し込めようとしたなら、それこそ人権侵害で違憲沙汰でしょうね。

これを何故だか一部の人が、「子供は学校に通う義務を負っている」と思っているのだとか。
こういう人の場合、①よりも対応は簡単ですね。
問題の解決は諦めて、そもそも問題など無かったことに気付けばいいだけですから。
これを問題の「解消」と言います。

教育を受ける権利を行使せずとも、本でもインターネットでも学べばいいでしょう。
インターネットのお陰で誰を教師にするかを選べるようになったことを考えると、「不登校は教育上の問題である」という発想自体がだいぶ時代遅れです。
少なくとも、教育上の問題ではありません。

百歩譲って人間関係の問題ではあり得るかもしれません。
しかし、それでも百歩譲ればです。
そもそも、学校という逃げ場のない空間に閉じ込めて、ずっと同じ人間との関係を強要されれば、人間関係に問題を抱えないこと自体が、爪弾きを喰らわないための課題になるのは必然的。
そうなれば、行動力のある子はいじめに抑圧の吐口を見つけ出すでしょうし、消極的な子は抑圧のために心を病むでしょう。
いじめと不登校とは、いじめっ子といじめられっ子との直接的でわかりやすい対応以上に深いところで表裏一体なのですよ。

それに、そもそもな話、学校という行動制限の付いた限られた人数しかいない中で、良好な関係を築ける相手が100%見つかる保証もありません。
いわゆるリア充非モテとの対比みたく、人間関係の勝者と敗者とが織りなすスクールカーストなるものが発達する場合がありますが、そこで偽りの勝敗感覚に一喜一憂するのもバカバカしい話です。
自信過剰と自信過少。どちらにしても社会的な病人を生み出すだけでしょう。
社会人の人間関係は必ずしも椅子取りゲーム(ゼロサムゲーム)じゃないですからね。

今時、SNSを通じて知り合うことだってごく日常的です。
騙す人の存在をSNSの危険性と絡めてくる論調がありますが、リアルにも騙す人は幾らでもいますよね。
リアルなら安全だという勘違いを擦り込む弊害しかありませんから、あの手の論法には百害あって一利なしですよ。

安全は場所に帰属される形のあるものではなく、自分の選択に帰属される仕組みみたいなものです。
選択次第でどこでも安全だし、どこでも危険です。
同じ教室に、安全を勝ち取ったいじめっ子と虐げられる側に回ったいじめられっ子とが同居してるようなものですね。
騙す人も騙される人もどこにだっているのだから、自分が騙す側にならないことに気を使うのが一番正しいことにそろそろ気付きましょう。

どんなに快適な環境を与えても、飼育下の動物では自然界の動物の寿命を超えないという話があります。
それくらいに、逃げ場のない環境というのは、生物にとって不自然で生きがい探しのできない監獄そのもの。
学習環境を選べる時代背景も手伝って、通わずに済むなら学校には通わないに越したことのない時代かもしれませんよ。

自分なりの学び方をカスタマイズできる時代。くらいに考えておくのが精神衛生上健全でしょうね。


取り止めのない話を聞いてくださり、ありがとうございました。