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他人を省いて自分を生きる

正義マンの正体は「権力の奴隷」

社会のルールに従わない人に対して攻撃的になる人がいます。
こういう人を正義マンと呼ぶらしいですが、今回はこの正義マンの精神構造を簡潔に説明したいと思います。

彼らの行動原理を理解するカギは2つです。

・知的弱者であること。
・見栄っ張りであること。

この二つを押さえた上で彼らを観察すると、彼らの行動原理を単純明快に説明できます。
彼らの行動原理がつまびらかになれば、彼らの理不尽な態度に悲しい気持ちにさせられることもなくなるでしょう。


【自分なりの正しさを考え出す頭が足りない】

先ずは、彼らの一つ目の特徴である「知的弱者であること」の方から見ていきましょう。

「正しい」という言葉がありますが、これはもっと正確に言えば「自分にとって正しい」という意味になります。

ここで、正しさを「論理によって導出された結論であること」と定義するとしましょう。
論理的に導き出せる正しさというものには、必ず前提情報があります。

論理の基本骨格である三段論法を例にとればわかりやすいでしょう。
人間はみな、いつか死ぬ。ソクラテスは人間である。故にソクラテスはいつか死ぬ。
という論理展開をするときの「人間はみな、いつか死ぬ」が論理における前提情報ですね。

もしもこの前提が崩れて死なない人間ができ上がった日には、この論理は成り立ちません。
そして、論理的に思考を働かせるときに各人が置かれている条件というものは、生まれた時から一人一人違っています。
よって、正しさが論理によって決まっているこの世の中では、「正しいとは、あくまでもその人物にとって正しい、という意味を決して超えない」と言うことができるでしょう。

この事実からわかることは、自分の頭で考えない限り、自分が従うべき自分なりの正しさとは出会えないということです。

社会を規定しているルールというものは、大半の人にとって、言うまでもなく「自分以外の誰かが考え出した正しさを形にするためのフレーム」ですから、社会のルールを「自らも従うべき自分自身の正しさと言えるものの一つ」として受け止められるかどうかは、その人物の批判的思考力に掛かっていると言えます。

これができる思考力が備わっている人は、たとえそれが社会のルールであるとはいえ、従うか否かはあくまでも個々人の裁量に掛かっていることが、自分自身の経験則としても理解できているため、決して他人に押し付けようという発想にはなりません。

もちろん、人が死ぬようなルール違反は別でしょうが。

さて、ここまで考えると、社会のルールを自分のもののように振りかざして、他人もそれに従うように圧力を掛けてくる正義マンの思考回路が見えてくるかと思います。

結論を言うと、彼らには自分なりの正しさを考え出したり判定したりするだけの頭脳が無いのです。
その結果、自分が取っているポジション、選んだ生き方に自信が持てず、権力者が考え出したルールを笠に着てこれを補うことを目的に、正義マンを演じることになるのです。


【競争に負けないことでしか自分の価値を測れない】

とは言え、これだけだと完全な説明にはなっていません。
そもそもなぜ彼らが、たかだか「頭が悪いことへの自覚」だけで、正義マンを演じざるを得ないほどに自信を喪失しているのか?の説明がついていないからです。
というわけで、次は「なぜ正義マンは頭脳明晰であることにそこまで拘るのか?」を暴いてみようと思います。

競争に勝つことに快感を覚えるタイプの人にはわかるでしょうが、世の中には競争に勝つこと、ないしは負けないことでしか自分の価値を測れない人がいます。

我が道を突き進むことにしか興味が無い人や、知的好奇心を満たすことが一番大事!という人、他人から認められなきゃ意味が無い!というタイプの人には理解不能かもしれませんが、とりあえず、世の中には競争原理主義が社会圧によってではなく、生まれついての性向として備わっている人がいるのだと思っておいてください。

さて、こういうタイプの人はそもそもルールというものが大好物です。
なぜかと言うと、ルールがないと勝敗は決まらないからです。
勝つことや負けないことで満足感を得られるタイプの競争原理至上主義者的には、ルールの中でしか自分の価値、そこからもたらされる自信というものはあり得ませんから、勝ち負けが決まらないことには関心がありません。

とは言え、ルールを勝ち抜くためには、相応の才能や能力、努力が不可欠であることは言うまでもありません。
受験戦争を戦ったことがある人や、スポーツで順位を争った経験がある人なら、誰もが知っていることです。

尚且つ、ルールの中で勝者になれるのは、挑戦者の中のほんの一握りです。
勝敗という形で人間に価値付けするのがルールのある戦いなので、これは当たり前ですね。
そして、この「当たり前」が敗者側にカウントされる人の精神に大問題を起こします。

競争原理主義を持たない人には無関係ですが、競争原理主義者にとって、敗北は自分という存在の価値の崩壊を意味します。
勝つことや負けないことでしか自分に価値を見出せない訳ですから、これも当然の結果と言えるでしょう。

簡単に言うと、こうなってしまった競争原理主義者には「負け癖」が付きます。
分かりやすい変化としては、言い訳がましくなったり、自分をバカだ無能だと言ってはばからなくなったり、考えたり努力したりすることを放棄したりするようになります。

勝つことに拘る彼らの精神性からは矛盾するように見えますが、これにはちゃんと彼らなりの論理があります。
思い出してください。彼らにとっては負けないことも重要な課題なのです。
考えたり努力したりといった練習をやめれば、「やれば勝てる自分像」「やれば負けいない自分像」を守ることができるし、練習してないのだから負けても仕方ないという言い訳が使えるようになります。
普段から無能をアピールしておけば、負けて当たり前だから、ほんとうに負けてしまった場面で必要以上に傷付かなくて済みます。

だから、負け癖のついた競争原理主義者は、言い訳がましくなったり、自分はバカですと言わんばかりの謎のアピールが増えたり、努力を放棄したりするようになります。

とは言え、ただ負けないばかりでは彼らも気が済みません。
勝つことも彼らの至上命題の一つなのですから。

この時、彼らが使えるとても都合のいい道具があります。
権力者という知的強者の考え出したルールです。

無力にして無能な自分が考えた意見は、簡単に他人に覆されてしまう恐れがありますが、推定知者である社会的な権力者が作ったルールなら、他人に向けて振り下ろしても、そう簡単に壊れてしまうことは無いはずです。
無意識に働いたこのような意思決定の結果、彼らは社会のルールを拠り所に、他人と戦うことを選ぶのです。

そこに自分のやっていることの正当性への反省的な視点などはありません。
言うなれば追い詰められたネズミのような背水の陣を戦っているつもりの彼らですから、そんなことにかまっている余裕はないわけです。


【まとめ】

いろいろと細かく説明しましたが、正義マンをもっと単純な例えで言い表すなら、「どうでもいいことを自信の根拠にしたがる無能な年寄り」と似たようなものです。

世の中には、過去の栄光にすがるためだけに生きているような人や、プライドとはき違えられた単なる見栄っ張りな自分を満たすためだけに生きてしまっているような人がいるものです。

例えば、スポーツの大会などが開催されて、それがテレビなどで放送されると、地元の選手やチームの入賞を自分自身の誇りのように感じる人がいるそうです。

彼らは恐らく、自分の能力や立場にあまりにも自信が無さ過ぎて、本来自分の能力や成果とは無関係な「どうでもいいこと」ですら誇りにしないと、精神的な安定を保てないのだと思います。

簡単に言うと、無能を自覚している人ほど、どうでもいいことを誇りにしたがる傾向があるというわけです。
健康にはいいのかもしれませんが、健全とは程遠い生き方です。

だから私は、他人のちょっとしたミスに過敏に反応してこれを責め立てる癖に、何が問題なのかを質問すると口を閉ざしてしまう人や、明後日の方向の回答しかできない人の存在が、とても悲しく思います。

彼らは自分が思考停止して生きてきたことのツケによる自信喪失というストレスを、他人をサンドバックにすることで発散しようともくろんでいるから、あのような矛盾したアクションを起こしてしまうわけです。

サンドバックにされた被害者がかわいそうであることはもちろんのこと、自信が欲しかったはずなのに、気付けば他人のルールに縛られた奴隷になってしまっていた!という矛盾を抱えた彼らの立場もかわいそうなものです。

思考停止をやめればすぐに解消される問題とは言え、考えないことの楽チンさを思えば、それは酒やタバコのように、そう簡単に手放せるものではないのかもしれません。

私の友人にも同じようなひがみ根性に支配されている人がいて、このような精神性を本人に説明してやると、納得すると同時に、今度は社会のルールに従う代わりに私の言いなりになろうとし始めるという「ちゃんと聞いてましたか?」と言いたくなるようなアクションに出る人がいます。

詰まるところ、思考停止に慣れきってしまった人は、思考することができている自分だった経験が無いために、思考を働かせるとはどういうことなのかもわからないのでしょう。
人間は知っているものしか認識できませんから。

思考停止に効く薬はそう簡単に見つかりそうにありませんが、手っ取り早い方法としては、ちゃんと自分の考えを持って生きている競争原理主義者のモデルになる人物を知ることが第一歩かもしれませんね。

例えば、ホリエモンやメンタリストDaiGoなどの人物は、いわば「勝ち癖」のついた競争原理主義者で、自分の選択やポジションに自信を持っていますから、ちゃんと自分の頭で考えて正しさを選んでいます。
その証拠に、彼らは社会のルールに対しても、知的弱者みたくこれを武器にするのではなくて、使いこなして勝利を掴んだり、時には批判の対象にしたりもします。

わたし自身は、知的好奇心を満たすことにしか興味が無いタイプの人間なのでわかりませんが、競争の中でしか自分の価値を測れないタイプの人には、ホリエモンやDaiGoは自分と価値観を同じくする人間の上手くいってるパターンとして参考になる部分が多いのではないでしょうか?

人間は知っていることしか認識出ませんから、思考停止してないバージョンの自分がどんなであるかに当たりをつける意味でも、負け癖から脱却して正義マンを卒業する意味でも、先人の姿を自分なりに研究してみてはいかがでしょうか。