Save My LIFE

他人を省いて自分を生きる

「死ぬのが怖い」は存在しないものを語る言葉に惑わされてるだけ。

【「死ぬのが怖い」はあり得ない!?】

死ぬことが怖いと思っていて、可能な限り長生きしたいと願っている人は多いでしょう。
とはいえ、実はこれ、ただの自己欺瞞ではないですかね?

実のところ、死ぬのが怖いんじゃなくて、痛々しい死に方をするのが怖いだけ。
突き詰めれば、痛いのが嫌なだけであって、死にたくないのでも怖いのでもない。
あくまでも「痛いのが嫌」という話です。


【「老い」は死ぬこととは無関係】

なんなら、言動の上では「死を恐れている」としながら、実は死とは全く関係の無い事柄を恐れている場合すらある。
「老い」というやつだ。

死にまつわるあれこれが怖いのではなく、老いることによって現状を維持できなくなることが怖いだけという場合。
このパターンでは、そもそもの死が全く問題にならない。

なぜなら、老いは死に向かうプロセスというよりも、生きることに伴う現象だから。
老いたくなければ今すぐ死ねばいい!
という結論が、あくまでも論理的には成り立つわけだから、実は「老い」と「死」とは表裏一体ではない。

死ねば老いない。
このように、死と老いとが同時に成り立たない状況が想定できるということは、両者は全くの別物だ。

一方で、「生きている限り老いる」「老いを避けるには生きることをやめるしかない」とも言える。
ということは、「老い」はむしろ「生」と表裏一体の現象だ。
結論自体は至極当たり前のことだが、背理法なんかを使ってみて論理的に確認し直すと、こうなる。


【老いるメリットを見つけ出せばいいだけ。自殺は痛いし】

よって、老いることを恐れているだけの人は、これを自覚するだけで、無駄に背負ってしまっている死の恐怖からは解放されることができるだろう。
それでも老いに対する恐怖は残るわけだが、これについては、心理学などこねくり回して、老いることのメリットでも学べばいいのではなかろうか。

老いが今後の人生にデメリットしかもたらさないと思い込んでいるからこそ、老いは恐怖の対象に躍り出ている。
であれば、メリットさえ知っていればこれを中和できること請け合い。

老いを止めるために自殺に踏み切るという論理を構築&実践するより、幾分か楽チンだと思うのだ。
死への恐怖の理由って、痛みがあると思うから生じてしまうわけだけど、自殺って大半は痛みを伴いそうだしね。


【私たちは死の恐怖を知らない】

そもそもな話、進化を生き残ってきた特徴であれば、ストレスにすらメリットがあるものです。
本当に私たちが死そのものを恐れることができているなら、祖先がとっくに死を克服してるはず。
それができていないということは、あくまでも私たちは自分個人の存在の消失を恐れてセックスに勤しんできたわけではなく、子孫の断絶というもっと大きなスケールに対する恐怖からセックスに勤しんできたはずですね。

このように考えても、私たちが自分が死ぬことを恐れているかどうかは、だいぶ怪しいものです。
死んだ後どうなるかは誰にもわからないわけで、死を経験済みの人類もいやしない。
人間は知っているものしか認識できない生き物だから、知りようのない死の体験を恐れているわけもなく。


【死の恐怖にどう向き合うか?】

ここまで考えれば、私たちは死に怯えて生きる存在じゃないことがはっきり分かるかと思います。
それでも恐怖は残るのでしょうが、自分が恐れていたものが「死」という扱いようのない抽象的な代物ではないことが分かっただけでも、かなり恐怖の克服に近付いたと言えるでしょう。

先にも述べたように、人間は知っているものしか認識できません。
従って、恐怖の対象も知っているか、少なくとも知っていると思っていることだけです。

これは大きな強みと言えましょう。
知らないものは扱いようがありませんが、知っているものなら扱いようがあります。
知っているつもりのものは知らないことを自覚するだけです。

こうやって自分の恐怖心の対象に輪郭を与えていけば、それは避けようのない運命から、単なる一命題に落とし込めます。
要するに、考えをこねくり回して乗りこなすべき形あるものになるわけですね。

運命に操縦席や操縦桿は無いらしいですが、命題にはいつも切り口というか乗り込み口が作れて、それさえやれれば操縦席も操縦桿も手に入ります。

ありもしない死の恐怖で「悩みオナニー」をすることはやめて、現実世界を生きるきっかけにしてはいかがでしょうか。

終わり。