Save My LIFE

他人を省いて自分を生きる

自信の取扱説明書。「根拠の無い自信」こそ本物です。

自分がファンになれる自分になることで、メンタルブロックを外して「既になったつもりの自分」を演じられる。誰でもなる前はそうじゃないわけだから、結局は自分が「なった」と決めることでしか挑戦など始まらない。そして、このように考えられるからこそ、挑戦の本質は逆説的に「平常運行」にこそあるのだ。要するに、挑戦とは習慣化すると決めた瞬間。「なりきり」が始まる瞬間の「平常運行化」を意味しているのだ。故に、挑戦なんてものは実は存在しない。「自分はできて当たり前。まだできてないだけ」がその実態だ。
成功体験が生まれた時から伴ってる人間なんていないから、実は「小さな成功体験を積み重ねて自信にせよ!」には欠点がある。最初の小さな成功体験を作るための一歩を踏み出す方法を教えていないことだ。
この欠点を埋めるピースこそが、上記のような、言うなれば自己洗脳だ。そもそも、既になった自分でいることでしか、ゴールの為に登って行くべきステップも、そのために必要な要因も見えてこない。だから、確かに自信は大事だけど、いつまでも「目指している自分」のつもりでいるべきではない。「目指してる」というマインドは、裏を返せば「まだなれていない」ということを自分に擦り込み続けてるようなもの。それでは、何をやっても結局は同じところをグルグル回ってるだけ。現状外には一切手が届いていない。「これが自信ありき」の挑戦の実態。やれてないクセにやれてるつもりな自分に酔ってるだけ。
これを解消してちゃんと現状の外に飛び出す為にも、やはり必要なのは自信よりも「なりきり」だ。そもそも、自信があるから挑戦する気になるのだとしたら、それは既に達成したことの延長にあるってことだ。過去の成功体験が根拠になって支え得るものなど、言うまでもなくそれらの延長ってことになる。この時点で、自信ありきの挑戦はやっぱり挑戦になってない。
何の根拠も無いまま、全く知らないんだけど「取り敢えずやってみる」という姿勢。実はこれだけが本当の挑戦だ。だから、「自信を身に付けて挑戦だ!」は詭弁だ。それがやれてる人は、その分野でどうせいつか成功まで漕ぎ着けるし、未だやれてない人が求めてるものは「全く新しい学び」であるわけだから、自信を付けても動き出す根拠にならない。
挑戦において、本当の本当にスタートラインにあるマインドは、「自分はもうなってる」「自分はできる。まだできてないだけ」という姿勢以外の何ものでもないのだ。この発想自体が自信の根拠であるべきであって、過去の具体的な成功体験が自信の根拠になるのは危険だ。何故なら、過去の出来事の是非など、今後の人生次第で起こる過去への意味付けの変化でどうにでも揺らぐし、そもそも未来は過去の延長じゃないから。
それに、自信が持ててる時には既にゴールは視界に入ってるから、そもそも自信を付けるのは不可能。何故なら、それは目的ではなく結果だから。コントロール不能だ。要するに、ゴールが見えてきたから人はこれまでのやり方に自信を持つわけで、過去の成功体験を軸に自信を構築してるわけじゃない。もしもそういう人が居れば、それはいわゆる老害と呼ばれる類の人物であることが想像に難くないように、そのような自信の持ち方は有害だ。
大体、挑戦に自信が必要だなんてのは妄想だ。未来に何が起こるかは不確定である以上、自信という過去の栄光のたまものは、実は誰にとっても未来の選択基準にならない。そこに因果関係を見出すのは、単純におかしな話だ。自己矛盾だ。自力で未来を選び取る為のメソッドを求めて「自信」という手掛かりを見つけた筈なのに、未だに過去に囚われるやり方を採用しようとしている。この自己矛盾にはちゃんと自覚を持った方がいい。自信は自信でも、過去を基準にしない方。根拠の無い方の自信を選びましょう。
物理現象ならいざ知らず、心理空間に根拠があることは危険なことだと知った方がいい。根拠がある自信というものは、根拠が瓦解した瞬間に一切の効力を失ってしまうもの。だから老害という存在が生まれるわけでもある。例えば、戦争はいけないことだと言いながら、一方で自分が出兵したことは正しかったなどと曰う二枚舌の爺さんがいる。しかも、彼らは日米戦争がアメリカによる日本への侵略戦争であった事実を知っているわけではない。日米戦争を日本によるアメリカへの侵略戦争だと思い込んだままなのに、このように言うのである。彼らは、自分の生き方を肯定するのに必死で自己矛盾に気付かない。というか、気付きたくない。必死で気付かない振りをしている。例えば「戦争に参加して尚も生き残った自分」という「過去の実体験」を根拠に自己肯定をしてきた為に、今更それを覆せないのである。過去への意味付けを変えたくないのである。それが彼らを頑にする。
幸福に条件を設けると不幸になるのと同じ。お金があるのが幸せだとか、美男や美女を伴った人生こそ価値があるとか、社会貢献せねばならないとか、そういう条件付きの幸福や人生観を追い求めると、日々を健やかに過ごせることの素晴らしさが霞んで、自分で勝手に不幸のどん底に落ちて行くことになるのと同じ話。あまつさえ、原因が自分の根拠付けの対象選びにあることに気付かず、自分が作った不幸な箱庭を「made by 他人」だと思い込んでしまう。こうなると、自分の境界がわからなくなる(=「自己の範囲」を定義できていない状態になる)ことで世界が自分とそれ以外との単純な二項対立でしか見れなくなって、自分を否定する人全員が敵対者に見えてくるわけだね。別に、拒絶されてるわけじゃないのにさ。逆に、同調してくれる人がみんな味方に見えて来る。別に、肯定されてるわけじゃないのにさ。要するに、客体の中に観測主体であるはずの自分が同化するところまで堕落した為に、自己中心的な視点しか持てなくなった結果だ。俯瞰的な視点からなら、自分と賛成側の他人と反対側の他人と、少なくとも三項共存以上には見えるものさ。
お分かりだろうか。人が頑固になったりご都合主義になったりする理由の一端がここにある。実体験を根拠にしてしまうと、その意味付けを頑に守る必要に迫られるから、頭が硬くなるのだ。思考が停止して知能が下がり出すのだ。「無批判な拒絶と同調」、「批判に基づく否定と肯定」との区別ができなくなるのだ。時代が変わっても尚、従来のやり方が正しいと信じて疑わない、おべっか大好きな上司なども全く同じ。高学歴で頭がいいはずの人達に限って、寧ろ旧態依然としたやり方が大好きで、周囲から見ると柔軟性の欠如した頑固者に見えるもの。そんな彼らが、自分と近しい人達だけで閉鎖的かつ排他的な集団を構築しがちなのも皆同じ理由。過去の「具体的な」成功体験を自信の根拠にしていることが原因だ。例えるなら、元薬物中毒者が他人を薬物中毒から守る活動に打ち込んでいるように見える時、その実態は、薬物と対立する自分を演じその姿を人々に見てもらうことで、他でもない自分自身が中毒者に逆戻りできないようにすることが本当の目的なのと似たようなもの。あの手のコミュニティは、場合によっては「わざわざ守らないと勝手に崩れてしまう程度の脆さ」の裏返しなのだ。あまり健全だとは思えないね。彼らのようになって後輩のお荷物にならない為にも、「事実ありきの自信」には早々に見切りをつけた方がいい。
かと言って、自信が無いのも勿論問題だ。そういう人は簡単に他人の支配を受けるから。軸がブレブレの心配症な人ほど、詐欺に引っかかりやすいのと同じかな。自信はもっと毒にも薬にもならないような性質のものでいい。事実みたいに形があって、ともすればしがみ付けてしまうようなものではなく、思い込みのように根拠も形も無くて、それ故にいつだって柔軟に切り替えられるもの。過去ベースな現状の自分を肯定する為じゃなくて、未来に立ち向かえる現状外の自分を肯定する為のもの。だからこそ、対立する他人の正しい意見を取り入れることが、「今の自分」にとって痛くも痒くもなく、寧ろ「未来の自分」の糧にしかならない。故に、いつだってオープンなマインドでいられる自分を保証するもの。
この程度が最強かつ健全で正常でしょうね。自分にとっても他人にとってもね。