Save My LIFE

他人を省いて自分を生きる

失敗を咎めてはいけない理由。

【はじめに】

世の中には「怒る」と「叱る」を区別したがる人がいますよね。

わたしに言わせれば、「怒る」と「叱る」とに全く違いはありません!

なぜなら、どちらも失敗を咎めている点で同じであり、咎められた側に生じる心理も同じだからです。

これからは、失敗を咎めない人間になりましょう。


【失敗を咎めると挑戦しない人間になります】

失敗を咎めることの決定的なダメポイントは、相手の「挑戦する意志」を挫いてしまうことです。

親が子を叱りつける場面を想像するとわかりやすいでしょう。

怒られたり叱られたりすると、子供は「失敗はいけないことなんだな」と学習します。
そして、そもそも失敗したのは新しいことに挑戦したことが理由ですから、挑戦そのものを「いけないこと」と捉えるようになります。

これは大人でも同じですよね。
失敗して上司にこっぴどく叱られた日には、同じタスクには二度と取り組みたくなくなりますよね。

ところで、よく「怒る」と「叱る」とを区別したがる人がいますが、ここまで読んでお分かりの通り、「挑戦する意思を挫く」という点で、両者を区別することに意味はありません。

どちらも同様に「失敗を咎めてしまっている」とすべきです。
「怒る」を「叱る」とするのは、単なる言葉の綾に過ぎません。
両者を区別したがる人は、怒ってる自分の醜さを隠すために、「叱ってるんだ!」と、それこそ醜い言い訳をしてるだけです。
もたらされる結果から見れば、怒っても叱っても同じことです。

物事はその結果から判断すると、中立に位置付け&評価できます。


【失敗の原因は価値観にあります】

失敗する理由というのは、必ずしもやり方が間違っていることが原因とは限りません。

失敗する原因の多くは、価値観が間違っていることに起因しています。
懸命な価値観を持たない人は、最適なやり方を頭ではわかっていても、あえてそれ以外の楽な方法を選んでしまうものなのです。

例えば、防犯意識に関する標語に「暗い近道よりも明るい回り道」というものがありますね。
これがまさしく「頭でわかっていても価値観が追い付いてない状態」の典型です。
他にも、倫理観が技術力に追い付いていない状況にも似ています。

つまり、私たちはどんなに正しい「正解の仕方」を知っていても、賢明な価値観が伴っていないためにそれを選べないことが多々あります。
失敗の原因は必ずしも「戦略が無いこと」ではありません。


【失敗は価値観を修正するチャンス】

失敗が必ずしも「能力の程度」によらないことはお分かり頂けたでしょう。
では、わたし達は失敗をどのように扱えばよいのでしょうか?

答えは「価値観の修正」になります。
これについてお話ししましょう。

自己啓発関連の本や成功者の伝記をよく読む方ならわかるかと思いますが、成功者の多くは「当たり前のこと」ばかり言ってますよね。
凡人が聞いて「当たり前だ」と感じるようなことで彼らが成功してるのだとしたら、失敗が失敗のままで終わってしまう理由は、その「当たり前」ができていないことにあります。

当たり前なのにできない理由はなんでしょうか?
もうわかりますよね。
価値観の問題です。
具体的には「自由から逃げようとする価値観」でしょうか。

自由というのは大変に辛い生き方です。
自由とは何者にも縛られないことではなく、何か譲れないものを持つことですよね。
それを貫き通すためには、結果として「縛られない選択」も必要になります。

それは例えば、学校に通わずに好きなことに没頭することだったり、就職しないで自分なりの社会貢献を突き詰めることだったり、様々かと思います。
一方で、それら全てに共通して言えることは、決意と信念の無い人物には決してできない生き方である。ということでしょう。

自由に生きることは庇護を捨てることです。
三者から見た表面的には、言葉の響きほど美しい生き方ではありません。
自由は本人の体感としてしか存在しません。

結局のところ、失敗を失敗で終わらせることなく、成功まで持っていける価値観というのは、このような「自由の厳しさ」を受け入れる価値観ではないでしょうか。

だとしたら、失敗が失敗に終わりそうな時に、わたし達ができることというのは、転ぶ前とは違う方向に向かって、何度でも立ち上がって歩き始めることです。
そのために、失敗した自分を「よく挑戦した!」と褒めてやることです。

他人が失敗した時も同じです。
失敗したということは、裏を返せば現状の外に出ようともがいたということです。
失敗した時こそ「よくやった」と、その挑戦した背景を称えてやるべきです。

こうすることで、失敗を咎めた場合に挑戦が「いけないこと」として学習されるのとは逆に、挑戦が「価値のあること」として学習され、価値観が少しづつ塗り替えられて行くはずです。