Save My LIFE

他人を省いて自分を生きる

ゴールとは到達点ではなくプロセスそのものである!

【結果に向かうプロセスをゴールと呼ぶ】

「ゴールとは到達点ではなく」まで読んだところで、「新たな始まりである」と続くだろうと思った人が多いのではないでしょうか。そう思った人は不正解!今回私が言いたいことは「ゴールとは到達点ではなく、結果に向かう過程そのものである」というお話です。

【ゴールを到達点とすると生じる矛盾】

結果的に辿り着くであろう地点をゴールだと仮定すると、ゴール設定は無意味だという話になりかねません。なにせ未来は不確定で、誰にとっても予測不能ですから。予想が「当たった外れた」は論じることができても、予測が「成功した失敗した」は論じられないのが未来です。つまり、成功したように見える予測は単に当たっただけだし、失敗したように見える予測は単に当たっただけであり、根本的にはどっちが優れているも劣っているも無いわけです。未来予測は本質的にみんなあくまで後知恵。
例え話をするなら、競馬で当てた自分に何故か自信を持ってる人に対して、大半の人が「それはたまたまであんたの能力とは無関係だろ」と冷やかな視線を送るシーンを想像するとわかりやすいかもしれませんね。

【「スタート地点」も含めて「ゴール」】

あることを達成した後、それに伴って付いてくる結果結末が理想的なものだとは限りません。しかも、目的の達成という形で「やることはやってる」わけですから、結果や結末というコインが裏を向くか表を向くかは単なる運任せでです。「やることはやった」以上の手出しは誰にもできません。「コインを投げるまで」が人の手がコントロール可能なプロセスであり、落ちるのは自然現象ですから。人間の意思の及ぶところではないのです。スターウォーズ的にはジェダイがサイコロの目の出方をコントロールすることは可能ですが。我々常人には無理な話です。だから、ゴールとは達成すると決めた後、その目的の為に「今からでもやれること」に着手し、ようやく達成段階まで漕ぎ着けるまでを指す言葉として以外には定義しようがないのです。だから、目的達成の結果として「勝手に」立ち現れた到達点ではなく、到達点に向かう直前の「目的の達成段階まで」をゴールと言うわけです。
この説明がイメージし辛いとしたら、それはゴールを100メートル走みたくイメージしてるからでしょう。あの手のシーンではゴールテープとして設定された「点」がゴールの扱いになります。でも実際はそうではなくて、走り始めた瞬間、なんならスタート地点に体をセットした瞬間からゴールなのです。言うなれば、「臨んだときには既になっている」に近いイメージです。であるからして、スタートとゴールを表裏一体のものとみなしても間違いではありません。寧ろ、一枚のコインの表裏という捉え方こそ正しいと言えます。
金メダルを取ったオリンピック選手は、金メダルを取るその瞬間にゴールテープを切ったのでしょうか?そうではありません。金メダルを取ると決めて練習に勤しみ始めた瞬間からが「ゴールのプロセス」です。何故なら、それら練習の日々無くして金メダルの獲得は説明できないからです。向かう過程と達成の瞬間とは、言うまでもなく切り離せないのです。ですから、ゴールとはスタートの瞬間からを数える達成までのプロセスそのものに他ならないのです。
ただし、正確に言うと、その選手が金メダルを取るかどうかは実はどうでもいいことで、オリンピックで達成した最高のプレーという在り方こそがゴールです。何故なら、メダルの有無については、結局のところ運任せだからです。その日の審査員の気分や評価の基準、チームメイトの体調など、あくまでも「結果」である順位付けについては、自分がどれだけのパフォーマンスを発揮したかには半ば無関係な要因も数多く含まれるからです。故に、彼らの事実上のゴールは「最高のパフォーマンスの発揮」にこそあり、実はメダルの取得はただの結果なのです。
生前に評価されることなく亡くなったものの、死後に評価が高まった芸術家の作品群見て、彼らが生きている間の結末を以って無駄な人生と評価する人はいない筈です。彼らの人生は「描きたいように描く」ために十全に燃やされた筈です(想像)。描いている間の彼らの充実を思えば、それ自体が描くこと、表現することの本来的な目的の達成と言えるでしょう。
ゴールと結果とは現在と未来との関係性と同じく本質的に独立していて、思いどおりになるものではありません。なったように見えるのは「当たっただけ」であり、ならなかったように見えるのは「外れただけ」です。どちらにしても、そもそもコントロールはできてません。それらの結果に優劣はありません。

【「ゴールテープを切る」はやめて「スタートを切る」ことだけ考えよう】

そもそも、行動し始めることができる人というのは、達成点までのロードマップが可視化されるくらいに、既にはっきりと「やれること」が見えているから、迷いなくやりたいように進んでいけるわけです。とすれば、スタートを切ることそれ自体がゴールという空間に踏み出すことそのものだと言えます。達成点が見えている状況でのスタートだからこそ、その第一歩は既にゴールの一部に他ならない訳です。
登山は登り詰めるべき頂上がはっきりしていて、頂上からの景色の中のどこに今の自分がいるのか想像できるものです。そうすると、自分が今やっていることは「ゴールの景色の一部=ゴールの世界の一部」だと思えることでしょう。そして、実際に登り詰めて頂上からこれまでの道のりを振り返ると、やはり実際にそれまでの歩みはゴールの世界に不可欠なパーツになってるわけです。
故に、スタートからゴールまでの「線」的な捉え方でこそ、ゴールは定義されるべきです。決して「点」ではありません。ゴールには幅があります。幅のない宙ぶらりんなゴールなんてありません。もしそうだとしたら、そのゴールは過去とは何の繋がりもなく独立して存在してることになりますから、どうやっても実現不可能であるか、ある日突然自動的に達成されることになるでしょう。そして、そんなものはありません。

【幸福への片道切符は「ゴールの位置付け」だけで手に入る】

結果に頓着してしまったら、どんなゴールの達成にも喜びが無くなってしまいます。望み通りの結果が出たときには「もっと上手くやれたのでは?」と思ってしまうし、望んだ面とは違う面をコインが見せれば「あのときこうしてれば」とか「最初からやらなければよかった」などと思ってしまうものです。これでは誰もハッピーになれません。幸福に条件設定をすると、過去のたらればを考えてしまうようになり、決して幸福になれなくなるのと同じです。結果への条件設定は不幸への片道切符です。絶対にやめて下さい。
死ぬ時に「あれをすればよかった」「これをしなければよかった」と言うのでは、これまで生きてきた意味がありません。人間には生まれた時から「死」という不可避の「結末」があり、それは究極的に個人的な現象で、だからこそそれまでの「生き方」は死ぬ瞬間の自分の為にあると言えます。人生のデザインは死ぬ瞬間の自分の満足の為だけに設計しましょう。他人の喜びは後回しです。何故なら、あなたが嬉しければ、周りの人も勝手にハッピーになるのが人間という生き物で、逆に言えば、自分がハッピーになる以外に他人をハッピーにする方法など、そもそも存在しないからです。
例えるなら、自分がお金持ちじゃないと貧困に苦しんでいる他人を助ける手立てが無いのと同じです。割れ窓効果やピアプレッシャー、同じ空間で過ごすと女性の生理周期が同期するように、人間は良くも悪くも環境や周囲の人間に影響されるものです。ですから、自分が幸福になることは、同時に周囲の人間をも幸せにし、彼らの周囲の人間のまた幸せになっていく理想的な状態を生み出します。
これは、洗脳や催眠の極意が「自己催眠」にあるのと同じことです。カルトの教祖があんなにも信奉される理由は、他でもない本人が自分を神の使いや何かだと「確信」してるからです。
これを自分を幸福だと確信する方向で使えば、中田敦彦さんが言うところの「幸福洗脳」の実現ですよ。彼が実際にはどんな意味で言っているかは知りませんが、私に言わせればこの仕組みこそがまさに「幸福洗脳」ですよ。
結果に頓着せずに、今この瞬間を真剣に楽しむことができたなら、それがどんな結果をもたらしても満足できますから、「ゴールの世界を生き抜くこととしての、自由と自己責任との実践」は必然的に幸福への片道切符になります。どうせ世界の象り方には片道切符しかないならば、こちらを選びましょう。中には幸福からの転落を恐れて不幸ばかりを望む人もいるでしょうが、安心して下さい。片道切符なので実践さえできれば二度と落ちることがないのが、自由と自己責任のいいところです。ゴールの世界を生き抜く人生の完成形です。