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他人を省いて自分を生きる

弔辞の力の正しい使い方。

弔辞の力の正しい使い方。

弔辞は死というゴールから見た評価の集大成といえる。よって、他人に対して「彼彼女はどんな弔辞を読まれることになるだろうか?」と考えてみると、相手がどんな人間なのかはっきりしてくる。この時のポイントは、どんな弔辞が「書かれるか」ではなく、どんな弔辞が「読まれるか」をイメージすることである。
そもそも弔辞とは、参列した多くの人々に聞かされるものである。故に、その場に居合わせた誰もが肯ける内容を綴る必要がある。書くシーンではなく読むシーンをイメージすることで、この点が強調される。すると、単なる主観的な思い込みがある程度排除されてより中立的な位置付け評価を下しやすくなる筈だ。
そして人間というものは、その思考力で以って、日々何らかの目標を作り出しては目の前に置いて、それを行動指針(言うなれば「ドグマ」)として生きているものである。従って、個人が辿り着き得る最終到達点である死の瞬間を軸に見てやることで、彼彼女が何を成すためにどんな風に生きようとしている人間なのかがわかる筈だ。それは本人が自覚しない生き様かもしれないし、本人の理想通りの生き様かもしれない。あるいは、途中で道を踏み外した結果かもしれない。何はともあれ、この見方をすることで、対人間を想定した審美眼が磨かれること間違いなしだ!
しかし、話はここで終わらない。このアプローチが真価を発揮するのは、これを自分自身に向けて行った時だろう。『7つの習慣』でも書いてあったことだが、著者は「ゴール設定のために、自分が読まれる理想の弔辞をイメージせよ!」と述べた。私はここにもう一つの手続きを加えたい。現状の自分が死んだ時に読まれるであろう弔辞の内容もイメージせよ!だ。
自己啓発の類にありがちなミスとして、理想的なゴールを思い浮かべることで、結果手に現状肯定を来してしまうというものがある。どういうことか。人間の脳は現実と想像をわざわざ区別して処理してはくれない。脳にとって現実と想像とは、処理過程の上では「同じもの」として扱われる。その結果何が起きるかというと、単に想像しただけで未だ何も始まっていない理想像を、既に達成したタスクだと思い込んでしまうのだ。その結果、モチベーションが失われて、何も手を付けないまま終わってしまうのだ。
卑近な例としては、勉強計画が挙げられるだろう。私を含めて誰もが一度は陥ったことがあると思う。未だ全く勉強していないというのに、勉強のスケジュールを立てただけで「やった気」になって満足してしまうアレだ。こうなると折角の計画も台無しで、今日こなす筈だったタスクが明日に後ろ倒され、本来なら明日やる筈だったタスクと同時に片付けることになり、当日になると面倒臭くてやれない。すると一日あたりのタスク配分を減らせばいいという発想になり、その計画が立った段階でまた満足して、同じことが繰り返される内に一日あたりのタスク配分がゼロに戻っているのだ。やるだけやったホリエモンとは明らかに違った『ゼロ』への回帰だ。
こういう偽物の自己満足や自己効力感を得るためだけの計画やゴール設定を、「絵に描いた餅」「画餅」とか「妄想」と言うのだ。
そして、『7つの習慣』における弔辞の設計もこの問題を未解決のままにしている。理想型だけを描いてしまっていることがその原因だ。であれば、そんな理想からかけ離れた絶望の未来も同時の並べてやればいい。それが「現状の自分のまま死んだ場合に読まれる弔辞」だ。ちなみに、このようなゴールを達成するまでの障害を事前に想定しておくことを「心理対比」と言って、実際に一定の効果が確認されてる。障害をイメージしておくことで、脳が「もうやった」と勘違いするのを予防するわけだ。
もしくは、コーチングの分野で言うところの「ストラクチャーバリア」を張るのも一つの手だ。これも現状肯定を回避する手立ての一つなのだが、心理対比とは大分やり方が異なる。心理対比がプラスをマイナスで打ち消す発想であるのに対して、こちらはプラスをそもそもプラスにしない発想だ。どんなものかと言うと、ゴールを思い描く時に「なりたい」や「できる」ではなく「もうやってる」「既にこうだ」と自分に言い聞かせるのだ。
要するに、現状肯定が生じる原因は、そもそも今現在の延長にゴールが設定されているせいで、「このまま何もしなくても、ゴールは勝手に達成されるさ」と脳が勘違いを起こすことにある。であれば、「今現在の延長にゴールを設定するのをやめれば良くない?心理対比がそうであるように、一定のストレスがゴールに向かうモチベーションを生み出すんでしょ。それなら、改竄も言い訳もしようのない現在において、既にゴールは達成されているというデタラメを脳に吹き込んでやろうぜ。そうすれば、認知的不協和が働いて、理想と現実のギャップを埋めよとする意識が芽生えること間違いなしでしょ!」みたいな考え方だ。
デスクチェアの業界で例えるなら、心理対比が「座りっぱなしが体に悪いなら、座りっぱなしが問題にならない椅子を作ればいいじゃない」と言ってアーロンチェアをデザインする発想であるのに対して、ストラクチャーバリアは「座りっぱなしが体に悪いなら、そもそも椅子なんか無ければいいじゃない」と言ってスタンディングデスクを発明する発想だね。
ちなみに、認知的不協和というのは、理想と現実とがかけ離れてしまっている時に生じる不快感のこと。人間はこの状態に置かれると、何としてでもこれを是正しようと、無意識が非常にクリエイティブに働くことがわかってる。
面白い話を紹介しよう。皆さんは、助けた人間と助けられた人間との2者がいる時、どちらがどちらのことを好きになりやすいかわかるだろうか?捻くれなしで自然に考えるなら、助けられた側が助けた側を好きになりそうなものだが、実際は逆だ。助けた側が助けられた側を好きになる確率の方が圧倒的に高いのだ。
これはどういう心理的な働きなのか。例えば、川で溺れている子供をあなたが助けに行ったとしよう、水というのは恐ろしいもので、膝下程度の浅い川でも人は溺死し得る。それを分かった上で、それでもあなたは子供を助けるリスクを負ったわけである。この時あなたの脳では、こんな記憶の書き換えが起こる。
「こんなリスクを負ってまでわざわざ助けた子供なのだから、私はこの子供が好きであるに違いない。でなければ助けてなんかいない筈だ!」
つまり、先に述べた理想と現実とのギャップが起こって、いつの間にやらあなたの脳内では、助けた相手のことをとっくに好きだったことになってしまっているのである。これが認知的不協和の働きである。
結局のところ、人間は不満によって生じる認知的不協和の力無しには何もできない生き物なのである。上の例でもわかる通り、人は元来、「これだ!」という理由無しにはなにもしたくないのである。だからこそ、間違って助けてしまった時に、「私はこの人が好きだ」なんていう言い訳がましい辻褄合わせが必要になるのだ。認知的不協和の働きを逆向きに考えればそういうことだ。人は不満という理由無しには、不合理すぎて挑戦的になれないのだ。だから、目標達成には必ず認知的不協和を生じさせる不満が必要で、その為には現状肯定を断固として回避しなければならない。今回は、そのために心理対比とストラクチャーバリアという2つのアプローチを紹介しました。皆さんのお役に立てると嬉しいです。
ではまた。