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文系科目と理系科目は何が違う?

理系科目と文系科目とは何が違う?

勉強していて思うことだが、理系科目と呼ぼれるグループと文系科目と呼ばれるグループの違いとは、少なくとも授業やテストにおいて、文系科目が知識理解のみを問うのに対して、理系科目はその運用まで問うているように思える。
仮にこの点を両者の相違点とするなら、実は科目それ自体に文系だの理系だのと言った属性があるわけではないことがわかる。例えば、文系とされる社会系の科目の知識を運用して外交問題の行く末を予測するようなインテリジェンスを発揮する人々、あるいはシンクタンクと呼ばれる人々にとっては、社会系科目も明かに理系科目の一つだ。逆に、理系科目とされる数学と取り組む人にしても、理論は理解しているが実際の問題を解く時に使い熟せない人には、数学さえも文系科目の一つだろう。
要は、外向性や内向性について、個々人にどちらかの傾向があるのと同時に、同じ人物が時と場合によってどちらにも傾き得るのと同じで、文系と理系も科目単位にそうした傾向が見られるだけでなく、やはりその使い手次第でどちらにもなり得るわけだ。言わば、科目ではなく個々人の脳の傾向と言った方が良い。もちろん、文系科目における予測的思考は、理系科目とは比にならない量の知識を要するから、文系科目の知識を予測的に利用できていないことだけを以って「誰それは文系だ!」とするのは早計だ。単にまだブレークスルーに達する量の知識が蓄えられていないだけかもしれないからね。
ところで、文系か理系かと言えば、もう一つ外せない視点がある。それは、知識理解を試す方法が「想起的」であるか「運用的」であるかという違いだ。例えば、学校で日本史の知識理解を試す場合、教科書にはっきりと明記されているような、既に過去に起こった出来事の文章による再現を求められるだろう。対して、数学や理科では、理論的背景は同じでも、教科書に書いてあるのとは異なる文脈で問題が出されることだろう。
というように、文系とされる科目と理系とされる科目とには、知識理解の確認方法にいささか違いが見られる。既知を問われるか未知を問われるか、という具合だ。過去を問われるか未来を問われるか、と言い換えてもいい。つまり、文系科目が既知を答えることさえ出来ればよしとされるのに対して、理系科目の知識理解は運用の出来不出来によってこそ問うことができるのだ。このように考えると、やはり、科目それ自体に文系的傾向や理系的傾向があるという発想にも一定の正しさが窺えるように思う。
とは言えだ。先にも述べた通り、文系科目で運用的な取り組みを正しく行うためには膨大な知識が必要だ。数学みたいに、三角形の面積の公式一つ覚えておけば、どんな三角形の面積も求まるような、単純な話ではない。同じだけの応用力を発揮するには、検討すべき要因が圧倒的に多いのが文系科目だ。
ここに、文系と理系とが「分けられている」理由があるのではないだろうか。理系における未知には答え合わせが利くが、文系において推論された未知には答え合わせの方法が無い。あるにはあるが、時間の経過に頼らねばならない場合がしばしば。なんなら、着目するポイント次第で答えまで変わり得る。答えが変わるというか、同一物に複数の別側面を見出せる。だから、文系科目では理系科目のような運用力はあまり問われない。採点方法がないから。代わりに、小論文やレポートという形で、分野を跨ぐ形でその思考力が問われるのだろう。
この採点の難しさという要因ゆえに、教える側の便宜を図る形で文系科目と理系科目とが便宜的に分けられている。というわけだ。