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他人を省いて自分を生きる

記憶の正確さと持続時間とはトレードオフ、逆相関の関係にある

記憶の正確さと持続時間とはトレードオフ、逆相関の関係にある筈だ。

例えば、猛禽類の視覚記憶は人間よりも遥かに正確であることが知られているが、一回毎の狩りの瞬間にしか役に立たない記憶であることから考えるに、その持続時間は大したものではないだろうと想像できる。あくまでも、記憶の保持には本来節約や倹約がされ得るだけの、相応のエネルギーを要するという前提を肯定するならだが。
対する人間の記憶というものは、彼等ほどの正確性は欠いているものの、記憶の持続時間では他の凡ゆる動物に優っていると予想できる。というのも、曖昧であるが故に凡ゆる場面に敷衍可能なだけの応用力が潜在することになるため、忘却によって記憶保持のエネルギーを節約したり倹約したりするメリットは相対的に小さくなる筈だからだ。

この対比をベースに考えると、何故に理解の伴った知識は忘れ難く且つ思い出しやすいのか?の答えが見えてくる。
そもそも理解するとはアナロジーによって既存の記憶の構造とオーバーラップされることであると言える。そして、記憶がアナロジカルに扱われる際には、この世に全く同じ現象は存在しないことから、類比化以前に必ず、記憶の分解ないし統合が伴っていることになる。
これを前提とするなら、理解(=「わかった」の感覚)が成り立つ時、対象となる記憶はその時点で元の情報とは別物に加工されたインテリジェンスに転化していることになる。

ある事柄を理解するときに利用した回路というのは、言うまでもなくその人物の脳内に既に備わっていた構造の延長にある。「以上」ないし「以下」と言ってもいい。無い機能が発揮された結果、対象の理解が成立した。なんてことはあり得ないから、これは当たり前のことだろう。
とすると、「理解した」という意味での「わかった」は、寧ろ「理解できた」という意味での「わかった」であると言える。つまり、たまたま既存の回路でアナロジカルに解釈可能な側面を対象情報が持っていた、ないしは「見たいものだけを見る」とか「知っているものだけしか見えない」と言われるような人間の脳機能が、そのような側面をでっち上げた結果である。

要するに、理解の伴った記憶が忘れ難く思い出しやすい理由の本質は、「その情報に対応するフレームを私が既に持っていたから」なのである。新しく記憶されたようでいて、その実、最初からそこにあったものを掘り当てただけ。と言っても過言じゃない。
つまるところ、理解という現象が発生する時の「情報の加工(=インテリジェンス化)」とは、結局のところ、自分が持ってるフレームに合わせるように情報を鋳型に流し込んだだけの、言わば、どこまでも恣意的な脳の働きの結果なのかもしれない。餓死を防ぐ為に見たことの無いものすら「見たことあるもの扱い」するのが私たちの脳であることを思えば、今更驚きはしないが。

それに、この結論は別に私たちにとって絶望的なものでもなんでもない。「全ては既にそこにある」なんていうことは2500年も前に仏陀が発見していることだ。そして、見方を変えれば、私たち自身に最初から全てのフレームが備わっているということでもある。私たちが1を聴いて10を知るような知性を身につける為には、単純にそれらを自らの内側から掘り起こせばいいだけ。その具体的な手段が「挑戦」だ。
新しい能力、新しい自分に目覚めるには、言うまでもなく今までとは違う「自分の使い方」を形作る必要がある。だから、進化し続けるという意味での「人間らしさ」の為にも、私たちは常に挑戦的である必要がある。知的好奇心に溢れるチャレンジャーである必要がある。こういうことではないだろうか。

ちなみに、1を聴いて10を知るような知性と表現したのは、それこそが頭脳の本質だと私は考えるからだ。全てが最初からそこにあるのだとすれば、私と彼彼女、あの人とこの人とを分けるものは、結局のところ「同じものに異なる何を見出すのか?」の一点に集約される。
であれば、知性にしたってそれは変わらない。どれだけ多くを取り出せるのか?どれだけ変わったものを取り出せるのか?この2点こそが知性を平凡なものと特別なものとに分け、それが人生の充実具合に直結することは想像に難くない。遮られた視界では井の中の蛙でしかいられないのだ。
自分が切り出す世界を膨大な知識によって自分の意思で決め、己の置かれる世界観を自ら切り出してこそ、私たちは「自分だけが享受できる自由」に預かれるのでしょう。

ではまた。