Save My LIFE

他人を省いて自分を生きる

「ゴール」や「夢」ってそもそもなに?

【「ゴール」や「夢」の在り処はどこか?】

社会貢献はあくまでも結果。手段でも目的でもない。手段と目的とが自己の課題であるなら、結果である社会貢献は他人の課題だ。何故なら、それが評価に値する価値のあるもの、役立つものであるか否かを決める権利は、サプライヤーではなくコンシューマーやドナーの方にこそ帰属するから。
このように考えると、ゴールが形になることもまた結果であると言える。何に対応した結果であるかと言えば、もちろん、設定した目的とそれに向けて行使した手段とである。
従って、目の前の具体的な目的の次元を超えた場所にあるものとしてのゴールや夢というものの実態は、実は「今現在、自分が夢中になれること」としてその発露していると言える。言い換えると、「今この瞬間に全身全霊で取り組めていること」こそが夢でありゴールであるということだ。


【運任せな面も認めざるを得ない】

そして、それが社会に認められるかどうか?認められるならば、それは自分が生きている間なのかどうか?ということについては、はっきり言って「運」であり「偶然」であるとしか言えない。
でもそれでいい筈だ。これだけ多くの人が生きる世の中に生を受けたがために、確率的な事情で「誰かの役に立つのは当たり前」みたいな理想を見ている人は多いかもしれないが。あくまでもそれは確率的な話であり、実際には妄想だ。それに、自分の活躍が世界中の遍く人々に届くわけでもないから、実はどんな時代に生まれたのか?という点すら無関係かもしれない。
いつだって、私たちが影響できる範囲は限られてる。そんな世界だからこそ、自分がどこに位置付けられてどう評価されるのかだって、当然運頼みの側面が出てきてしまう。これは当たり前の限界であり、故に諦めどころだ。
アドラー心理学的な言い方をすれば、目的設定と手段の行使とは自己の課題だが、その結果どう位置付けられ評価されるかは他人の課題であるわけだ。
だから、幸福の基準として見るべきはそこじゃない。見返りを軸に価値を論じるのはナンセンスだ。未来なんてどうでもいいくらいに全力で取り組めるものが目の前にあるなら、それだけで人は喜びに満ち満ちた幸福な人生を送れるはずだ。もちろん、生活の経済的な基盤としてのファイナンスが成り立っている上での話だ。
そもそも、他人の為に生きることを目的にすれば、そこには必ずモラルライセンシングの問題が生じる。徳育教育や儒教が抱える矛盾と同じ話で、要は「悪いことをする権利のためにいいことをする」とか「見返りのためにいいことをする」という順番がアベコベなマインドになってしまうのだ。
あるいは、過程ではなく結果を褒められた子供のようになってもおかしくない。つまり、良く振る舞うことそのものではなく、良く振る舞った末の「見返り」部分が目的であるから、もっと手っ取り早く同じものが手に入る別の手段を講じる動機付けになってしまう。要するに、ズルによるショートカットをする理由になる。何故なら、手に入るものが結局同じならば、より効率が良い方が選ばれるのは必然だから。


【教育と社会とのフィードバック関係が大事】

創造的孤独な時間こそが、挑戦の機会を提供したり思考力を育んだりすることを考えるに、今の教育現場は子供たちを学校に閉じ込めすぎている。部活に入ることが強制されている学校などはその最たるものだ。
学校の言い分としては、「子供たちを外の世界の危険から遠ざけるため」なのかもしれない。がしかし、それはありがた迷惑ではないだろうか?リスクを負わないことが逆にリスクになってはいないだろうか?それが証拠に、今の大人たちの多くは「今のままじゃいけないとは思っているものの、自分は具体的に何をしたいのかまではわからない」という状態なのではないかと思う。これは明らかに、子供の時代の挑戦の機会を奪われ、思考の時間を妨げられた人間の成れの果てではないだろうか。
可愛い子には旅をさせろとも言うではないか。子供たちにはもっと積極的に挑戦してもらって、危険な目に遭ってもらおうじゃないか。私たち大人がそのセーフティネットを提供しないでどうする。社会というのは、将来を担う子供たちが「安全に危険を犯せる場」を提供することが本来の役割ではないのか。
いいじゃないか。子供は冒険する中で「自分が形にできる自由」と出会うものなのだから。それを許容できないが故に子供たちから可能性を奪ってしまう社会というのは、あまりも狭量であたかも鋳型のようである。もっと子供が掛ける迷惑におおらかになるべきだ。それは投資であって損失じゃないのだから。明日世界が終わるにならば、今日のマイナスはマイナスのままだが、世界が明日終わる可能性なんて考えても仕方がないじゃないか。10年経ってプラスに転じる迷惑は投資だ。損失じゃない。


【大人も遊ぶ】

そして、今現在やりたいことが見つからない大人も安心していい。何故なら、時間さえ作れば挑戦の機会はいくらでもあるからだ。子供のする挑戦を「遊び」と言うわけだが、そもそも遊びは子供の特権じゃない。大人だっていくつになっても遊べる。そして、遊びは私たち人間が人間であるためには、決して欠かせないものでもある。
遊びが私たちを挑戦的な存在たらしめ、挑戦的な存在であることが、私たちを人間たらしめる。何故なら、挑戦としての遊びの時間だけが、私たちを過去の延長から抜け出させてくれるから。
今は無い未来において手に入る成果に想いを馳せ、その空想の為に努力できるのは今のところは人間だけ。故に、人間を人間たらしめている性質は、「時空を超えた推論と、その空想を目指して成長進化する『状態』であること」にこそある。
そもそも人間が関係性の交点としてしか定義できないものであることを考えれば、人間は関係性の切り替わりによって絶えず移り変わる「状態」なのである。その「状態」の意味するところというのが「挑戦による学習」というわけである。


【そもそも戦わない】

勉強と部活しかさせない社会の中で上手く出世できる人というのは、単に「たまたま勉強やスポーツと相性が良かった」だけ。だから、今の社会で評価される人に引目を感じる必要はない。もっと言えば、そもそも誰も同じことをやって評価されてるわけじゃないから、比較にも値しない。比較の関係になれるものは分母と分子との関係になれるもの同士だけからね。
彼らと戦う必要はない。
画一化を志向する教育が結果したものが競争社会。教育の前提である多様化に逆らった、誤った前提の上にあるのが競争社会なのだから、わざわざそれに付き合ってやる必要はない。勉強が得意な人がたまたま運良く自分の向いているものを用意されたように、それ以外の人も自分の得意分野を探して戦いを避ければいい。
勝利とは本質的に「戦わずして勝つ」以外の場所には無いものだ。誰だってそう。同じことをやっているように見えても、実は違うことをやっているから差が出るわけだし、それでもやっぱりおんなじことをやっているように見える人々のグループがあって、その中で差が出ているなら、条件の違いが同じ行動の位置付けを相対化によって変えているだけ。どこまで行っても同じことをやってる人なんていない。


【理想は「全員味方」】

このように、誰もが違うことをやって「自分だけの幸福」に与っている社会になれば、それはもはや今のような単純な「支え合い」の社会ではない。もっと高度な「高め合いの社会」だ。そこでは誰もが互いの幸福を下から支える味方同士だ。それと同時に、それぞれがそれぞれに自分の才能を磨く時間を提供し合ってる、高め合いの関係でもある。誰もが自分の得意なことだけやればいいからだ。
こうなった世の中では、誰一人として競争相手と呼べるような敵はいない。もちろん、今現在も本質的にはそうであるから、よりわかりやすく言えば「競争社会という幻想」から解放されると言った方がいいかもしれない。
そうなれば、一人ひとりが自分の時間を大切にしつつ、同時に他人の時間も尊重し合えるのびのびした人生が実現できるのではないでしょうか。

ではまた。