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論理を知ることが論理的思考の第一歩になる。

【論理を知ることが論理的思考の第一歩になる】

 

論理を知っているだけでも、ある程度の論理的思考力は身につきます。

何故なら、論理はあくまでも道具だから。

思考そのものじゃなく、あくまでも思考が扱う道具だから。

生まれつきのものじゃなくて、後天的な学習で身につくものだから。


論理というものは、イメージ的には「言語」と同じ次元に位置付けられるものです。

言語が思考にとってのツールであるように、論理も思考にとってはツールの一つです。

ですから、みなさんが普段から言葉を使いこなしている程度には、

「論理というツール」も決して難しいものではないのです。

 

知っているだけでも効果があるという点では、「成長マインドセット」とも似た部分があります。

成長マインドセットという考え方も、これを知っているだけで実際に成長マインドが発揮されるわけですから。

 

そんなわけで、今回は「論理とはどんなものなのか?」をお話ししたいと思います。


【論理と思考とは共依存関係】

 

とはいえ、言葉がなければろくに思考が出来ないように、論理を知らなきゃ思考も定義できないというような、ある種の共依存関係が一方ではあるけどね。円の中心と円周との双方向性とか、帰納と演繹との双方向性みたいにさ。円の中心を定義しないと、そこから等間隔に並んだ点の集まりである円周は定義できない。逆に、円周を定義しないと、円周を構成する全ての点から等間隔の距離にある一個の中心点は定義できない。帰納と演繹との対応関係も同時にしか成り立たない。何故なら、帰納的に導いた法則に従うのが演繹で、演繹的に導いた法則の集積が帰納だから。というように、互いにとって互いが欠かせない関係がここにある。循環論法みたいだけど、それでもこれが真実。
単に「思う」ことと意識的に「考える」こととを区別するのであれば、「考える(=思考)」は論理無しには成り立たないって話さ。


【論理を因数分解すると】

ところで、数学は思考そのものじゃなくて思考が扱う道具であり、しかも思考と数学とは直接に結び付いてるわけじゃない。ディベートになぞらえて説明すれば、思考はデータで数学はクレームだ。であれば、その間を論理というワラントが繋いでる必要がある。
ちなみに、ワラントというのは何かというと、クレーム(=主張)を裏付けるに当たって「何ゆえそのデータ(=事実)を取り上げたのか?」という説明のこと。例えば、私が「戦争反対!」という主張をするために「人が死ぬからだ!」というデータを提示したとしよう。一見すると論理が繋がっているようだが、世の中には「犯罪者は死んだっていいじゃん」って人もいるわけさ。そういう例外の存在が見つかった瞬間に、「戦争への反対」と「人が死ぬべきでは無い」とは一対一の対応を成してないことになるわけ。つまり、論理展開のベクトルが一意的じゃない。これを一対一の関数的な対応に近付けて行くためには、例えば「善良な市民も犯罪者も関係無く、人は誰もが掛け替えがなくて代わりの利かない命なのだ!」とかっていうデータと主張との「つなぎ」が要るわけよ。そしてそれはいくつあってもいい。
要するに、「ワラント提示」とはデータと論理との繋がりから「例外」を取り除く手続きだね。素因数分解がその一意性を守るために、数字の1を素数扱いしないのと同じような話よ。
世の中には「私の身長は180cm(嘘)」とか「宇宙には暗黒物質がひしめいてる(仮説)」とかっていう無数の客観的事実(=データ)があるわけだけれど、戦争反対を主張するに当たって何故に自分の靴のサイズとか隣のあの子の苗字とかじゃなくて、「戦争では人が死ぬ」という特定のデータを切り出したのか?それは、「人の命は悪戯に奪われていいものじゃないからだ!」。これがワラントですよ。
簡単に理解するのであれば、「主張とその裏付けのために提示したデータを橋渡しするものがワラントだ!」でもいいけどね。ただし、正確な定義はさっきも言った通り「クレーム(=主張)を裏付けるに当たって「何ゆえそのデータ(=事実)を取り上げたのか?という説明」ね。プラス思考の意味とポジティブの意味とを一緒くたにすると心理学的な研究の意味がわからなくなることがあるように、ワラントについても念のため、頭の片隅に正確な定義を置いておいたほうがいいかもよ。私の場合はそのお陰で理解が助かった話もあったので。
こういう論理のレール上に乗っけるための「思い付き」や「思い出し」、「閃き」を提供するのが思考の役割で、思考の場に敷かれたこのレールこそが論理なわけだ。


【デフォルトモードネットワークあるいはマインドワンダリング】

もっと科学的な説明をするなら、「デフォルトモードネットワーク」という厨二心くすぐるキーワードを出さねばなるまい。もしくは「マインドワンダリング」でもいい。どちらの用語も、いわゆる「心ここに在らず」の時の脳の働きを表すものだ。デフォルトモードネットワークというのは心ここに在らずの時に活性化する脳のエリアで、マインドワンダリングはデフォルトモードネットワークが活性化してる時の心ここに在らず状態のこと。っていう物理レベルと情報レベルの対応関係ね。
人間の脳というのは、勉強や計算などの集中を要する活動から解放されると、自然と創造性が高まることが分かってる。この効果は木々に囲まれた自然環境を歩き回ることなんかでも起きることが分かってる。
つまり、何も意識的、意図的な活動をしていない時の、いわゆる「ボーッとしてる時」の状態を見ると、人間の脳は内面の情報を統合して新しいアイディアを閃くための活動に従事してることがわかる。つまり、外部要因(=剰余変数)を削りに削って脳みそオリジナルの機能を彫刻みたく削り出してみると、どうやら脳の「基本機能」としての思考の正体は「閃き」にこそありそうだよ。って話。『寄生獣』のラストシーン付近で、ミギーが意識をシャットダウンして内面での探索活動に入り込んで行ったあの状態みたいなもんよ。脳はインプットをオフにすると自動でアウトプットに切り替わるってわけ。だから、アウトプットこそが脳のデフォルトモードだっていう論理。
このように、論理を操作する時の意識的な頭脳活動を取り除いても「閃き」という機能が損なわれないことは、やはり「論理と思考(=閃き)」、「意識と無意識」とがあくまでも別物だってことを示してると言えるわけさ。


【「論理を学ぶために数学をやる」の矛盾】

さて。このように「論理に関する知識の存在そのもの」が架け橋になって両者(思考と論理と)を繋いでると考えると、論理を学ぶために数学と取り組むって発想はちょっとおかしいってことに気付いてしまう。
生まれつき天才的な論理のセンスがある人ならいざ知らず、いきなり何の説明も無しに道具だけを渡されても、その道具を見ただけで使い方がわかってしまう人なんてそうそういないじゃん。だのに、学校では論理を学ばずしていきなり数学という道具を渡されるわけ。そこから自力で論理を抽出できる人には、そもそも数学すら要らなくない?数学に取り組まなくても、数学で使う論理が初めから分かってる人なんだから。
道具と説明書って普通は分かれてるじゃん。電子レンジを使った後にしか説明書が読めない電子レンジなんてないでしょ。説明書は説明書として先に用意されてるものじゃん。その説明書を読んでから電子レンジを使うじゃん。それなのに、何故か数学では投げっぱなしジャーマンよろしく数学という道具が手渡され、後からその使い方が説明される。しかも、使い方(=論理に沿った頭の使い方)じゃなくて、正しく頭を使った場合に得られるとされるただの「結果」だけがね。
「数学は論理を学ぶためにあるのだ!」って発言の裏には、言うなれば「学習」という現象を語るに当たって「習う」と「学ぶ」を区別できてないという事情があると思うんだよね。両者を一緒くたにしてる。あるいは「学ぶ」の側しか扱えていない。
当たり前のことながら、生まれた時から人間社会の仕組みを知ってる赤ん坊なんていないわけよ。子供がそれを最初にどうやって知るかっていうと、大人から教えてもらうことにスタートラインがあるわけさ。その教えてもらったデータのストックが十分に溜まったら、そこで初めて自分で考え出すってことができるわけ。データを様々に組み合わせることでね。この「他人に教えてもらう段階」を「習い」に。「自力で捻り出す段階」を「学び」に対応させるならば、「学習」は明らかに「習う」と「学ぶ」に分解できるじゃん。この現実を無視して「数学は論理を学ぶためにあるのだ!」って言っちゃってませんか?つまり、「数学さえやっておけば、他人の教えを必要とせずして、自力で論理力を培えること間違い無し!」みたいな含みが入ってしまうことに無自覚じゃありませんか?
こう指摘されたなら、確かにおかしな発言だ!ってわかると思うんだよね。だってさあ、数学さえやっておけば他人の教えが要らないっていうなら、中学にも高校にも大学にも数学の教師役に当たる人がいるのはおかしくない?いつまで経っても自力でやれるようになってないじゃん。むしろこの状況自体が、明らかに「習いは必要である」ってことの傍証になってるくらいだよ。発言者が数学の教員だった日には、言ったそばから自己矛盾の誤謬まみれですよ。


【代案を提示するなら……】

とすると、いきなり数学をやらせる教育のあり方は、特別な論理の才能を持った一部の人しか想定してないことになる。結果論的な事実上の論理的な帰結としてね。学校に通うのは国民のほぼ全員で、玉石混交だというのに。この不適合を正すには、数学の前に論理を教えればいいわけさ。つまり、数学とは別枠で論理を知る場を設け、それを実践を通じてテクネーに昇華するための場として数学があればいい。これなら数学教育がちゃんと機能するよ。
本当は国語がその役割を果たすべきなんだろうけど、残念ながらそこが分かってる教師と巡り会える学生は多くないだろうね。それに、ここまでに述べてきたように、正しい順番は「論理→数学」であるわけだから、国語と数学とが同時に、しかも互いの内容に対応が無い形で教えられてる時点で、やっぱり正しく機能してるとは言えないよね。数学と国語とは連動しなきゃ。
これができないなら、国語の代わりに哲学を学習するのも1つの手かも。あくまでも代案だけれど。論理といえばそもそもは哲学の十八番だしさ。例えば、数学を必修科目にする前に、哲学を必修科目にするってのが正しい順番だよね。哲学で学んだ論理を実践する科目として数学を設ければ、今みたいに数学嫌いだらけの世の中ではなかったんじゃない?もちろん、国語の内容が「ちゃんと論理を教える科目」と言えるもになるよう舵を切るのであってもいい。今からでも遅くないと思うんだけどね。
実際問題、学校に通ってた子供の頃はちんぷんかんぷんだったけど、大人になって数学をやり直したら以外と簡単に理解できた。っていう人は多いと思うんだよね。それは一重に、社会経験を通じて数学以外の場所を通じて論理を身に付けたからでしょう。このことからも、論理と数学は切り分けるべきもので、尚且つ論理を学んだ後で実践の場として数学を設けるのが最適解だってわかると思うんだよね。
果てさて。今後の数学教育ないし国語教育はどうなって行くのでしょうかね。哲学が国語の座を乗っ取るというか、哲学が国語に取って代わる日が来るかもしれませんね。

ではまた。