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他人を省いて自分を生きる

「ADHDはクリエイティブだ!」などの研究に簡単に飛び付いていいものだろうか?

ADHDの方がクリエイティブである」などの研究があるが、これは「全人類の能力値のトータルには個々人間での差が凡そ無く、それ故に何かに劣る人は別にの何かに必ず優れる。また、逆に何かに優れる人は必ず何かに劣る」という前提の上での話である。あくまでもね。


【ステータスの合計に差がある可能性】

故に、仮に能力のトータルが突き抜けている人や劣っている人がいたなら、彼らにこの手の研究結果は当て嵌まらないということになるだろう。だから、「ADHDの人には彼らだからこその活躍の場がある!」というのを厳正な研究の成果として受け止める前に、「そもそも私たちの能力値の合計は、果たして同じなのだろうか?」という視点も必要だと思う。
ゲームでは当たり前にキャラクター毎のステータスの合計値は違うでしょ。それと同じように、現実世界での「何でもできる人」や「何にもできない人」、「そこそこにできる人」との間には、能力の割り振りのバランス差ではなく、根本的な合計値の差があっても別におかしくはない。「天は二物を与えず」はただの希望的観測。確証バイアスのたまものかもよ。
現状肯定の罠にハマって自己改革の様相を失った自己啓発に人気が出るように、この手の研究は大前提から目を背けているかもしれないよね。人はいつだってカテゴリ知覚によって「知ってるもの」だけを見ていて、その知っているものは「見ていたい現実」に他ならないからね。もちろん、前提が正しければ、多分それが一番だけれど。


【現状(=限界)を知らずして自由を生きることは適わない】

個々人の能力の合計の差をチェックする研究って行われてんのかな?見る人によっては区別と差別との混同を起こして逆上しかねない危ない研究ではあるからね。やるにはそれなりの覚悟が要るだろうけれども。でも、現状の視点から見て都合の良い結論に飛びついたとしても、それが間違ってる方がよほど残酷ではある。だからこそ、この辺もちゃんとはっきりさせるべきだよね。
何でもそうだけど、真実は受け入れて利用する人には祝福だけど、拒絶して目を背ける人には呪いじゃないですか。詰まるところ、どんな結果が出ようと個々人の受け取り方次第なんだから、正しいことは正しいこととしてはっきりさせるべき。実際問題、人類自体がそうやって発展してきた生き物なんだし。
自己中心的な天動説から、客観的視点に立脚した地動説へのコペルニクス的転回なんて典型的でしょ。神話の世界観を引き裂く事実を受け入れることは、地球という自分達人間が住む土地が宇宙の中心でないことを受け入れるのは辛かった筈だ。それでも数百年がかりで結局は受け入れた。時事は変えられないという当たり前の事情によって。こういう風に、人類は自己中なご都合主義の崩壊を何度となく乗り越えてきてる。今回だって乗り越えればいい。
都合の良し悪し度外視で事実は事実として浸透していかないと、過去の成果が擦り減って無くなるまで引き摺り歩く哀れな人になってしまうよ。自分が変わらなくても世界は変わるから。そして宇宙は相対的にできているものだから。
そもそも、都合の良し悪し自体が受け取り方次第で変わるものなのだから、現状の心理状態にとって都合が良いかどうかなんてことは考える必要が無いのだ。それは後から勝手に適合してくるし。例えば、科学技術の発展に倫理観が追い付くようにね。ニーバーの祈りに擬えて言えば、事実は変えられないこと。都合の良し悪しは変えられること。であれば、人は「事実の改竄」ではなく「事実への適応」を望むべきだろう。


【偏見差別という内なる最大の壁】

ここまで言っても尚、「そのような差別を助長しかねない研究には問題あり!」と唱える人がいたなら、それは、翻って彼ら自身のマインドの問題だろうね。人は一人ひとり違っているというわかり切っていた当たり前の現実に今更危機感を覚えるのだとしたら、それは危機感を持ってる人自身が差別的な発想を持っているだけだろう。言わば、単なる自己投影だ。
とは言え、偏見差別の問題を軽く考えてしまうのも浅はかだろう。700万年の歴史を歩んできた人類だが、人類全体の「偏見差別への処方箋」は未だ発明されていないわけだしね。あるいは浸透していないだけなのかもしれない。とは言え、結局のところ、遺伝的要因を排除しても尚、個人の人格形成にアプローチ可能なものと言えば、昔から「それは教育である!」と相場が決まっている。このように一定の回答があるにも関わらず、人類が偏見差別をやめられないのだとしたら、それは一重に教育が「人類を育てる教育」に値していないからだろう。


【あなたも私もいつか死ぬ】

どんなに科学技術が進歩しようと、私たちはいつか必ず死にます。あらゆる手を尽くして、大数の法則よろしく、死の確率を限りなくゼロに近付けることはできるでしょうが、決してゼロにはなりません。肉体は「もの」であり、「もの」はなにがしかのきっかけでいつか壊れます。アキレスと亀との距離が流れを止めた時間の中で決してゼロにならないように。あの命題の空間が、その時間の流れを止めて二者の関係性を「追うものと追われるもの」との関係性に閉じ込めているように、私達は3次元の檻の中で生涯に渡って「生に追われ死を追い掛ける関係性」の虜であります。
だから、個々人が人類に変化をもたらすには、必ず「世代を超えて伝わる何か」が必要になります。先に述べた通り、形のあるものは伝えても伝わりきりません。私たちが伝えられる「形無き価値」は、やはり教育というコンテンツだけです。ですから、私たちは一人ひとりがもっと教育的に貢献する私たちが本当に次の世代の為に
先ずは、避けようの無い事実としての「死」から目を背ける風潮を何とかするところからアプローチせねばならないでしょうね。「メメントモリ」とも言いますし、世代を超えて伝わるものを考えるモチベーションは今を生きる自分がいつか死に追い付くことを自覚することからでしょう。ゴール設定の文脈でもそうですが、ゴールとの時間的隔たりの感覚が小さいほど、人はモチベーションが高まりますからね。


さて、偏見も差別も戦争も無い「高め合い」の社会の実現を、私たちは目の当たりにするのでしょうか。それとも、今生きる誰かの貢献が後の世代にそれを遺すのでしょうか。あるいは、そのように「支え合い」から脱却した社会は、もう社会とは呼ばれなくなっているかもしれませんね。

ではまた。