Save My LIFE

他人を省いて自分を生きる

養育だけの子育ては片手落ち。教育あっての子育てです。

【養育×教育=子育て】

 

正しい知識と選択肢を提示する。親が子供にやっていいのは、結局のところこれだけ。
例えば、子供が布団の上で遊んでいるのを見つけて、「布団はパジャマに着替えて寝る時だけ使うべきところだから、布団で遊んではいけないよ」と指示するのは親としてはアウト。正しくは「刺激制限療法という考え方があってね、人間は布団やベッドで寝る以外の活動をしてしまうと、脳が勝手に『布団は寝る場所ではない!』って思い込んでしまうんだよ。だから、布団で遊ぶと眠れなくなるよ。これを知った上でどうするかは君の自由。私は毎日ぐっすり眠りたいから、布団では寝る以外のことをしないけどね」が正解。
正しい知識を与えた上で、必ず選択肢を残して選ばせること。これが自己責任の意識を育むのだ。親の側としても、正常な思考力が働いている人物であれば、命令支配するよりも実はこっちの方がはるかに楽チン。何故なら、子供と感情の次元で対立する必要が無いから。自他の課題の区別ができないせいで、勝手にストレスを溜め込んで心をすり減らすという事態に発展しようがないわけさ。互いが互いに自己責任で生きていることを尊重しあえるから。尊重というか、それが本来ならば当たり前だと気付くから。
もちろん、日頃から学習意欲のある親である必要があるが、そもそも学ぶ意思は人間として必須のものだし、それが無いなら子供を持たなければいいだけの話。人間は動物と違って、子供を作ることを「選択する」生き物だからね。動物は本能のままに選択することなく子作りに励むものだが、人間は子供を「作らない選択」ができる。なので逆説的に、人間の子作りは「選択」だと言える。本能ではなく選択である以上、その結果に自己責任が伴うのは当たり前。自分で選んだのだからね。従って、それが果たせそうにないことが事前にわかっているなら、子作りを「選択しない選択」もしっかり自己責任の内だ。
思考が停止している為に、「結婚したら子供を作って当たり前」と思い込んでいる人も多いが、それは産まれてくる子供が持つ「養育&教育を受ける権利」を無視していることに気付いた方がいい。「養育される権利」の方には分別のある親の卵が割と多くて、家庭の経済事情に鑑みた子作り計画をする人も少なくない。忘れられがちなのは「教育される権利」の方。こちらに思い及ばないまま子供を作る親擬きが多すぎ。
教育無しには育ててると言えないでしょ。人間は動物じゃないんだから、体だけ育っても「その人自身」として生きられるわけがないのだし。頭も相応に育っていてこその人間だという当たり前の事実が、何故だか忘れられがち。「子育て」とは「養育+教育」のことであって、どちらか一方だけでは明かに片手落ち。養育だけして子育てしてる気になってる人は、その勘違いを速かに正した方がいい。いつも家にいない一方で、会社でお金だけはちゃんと稼いでくる旦那から偉そうな態度を取られてる奥さん方にはイメージし易いかもね。
学校や塾があったところで、結局のところ、親が子供の最大関数であるのは厳然たる事実だ。自分が受けた学校教育がどんな下らないものだったか。自分が通った学校の環境がどれだけ閉鎖的で排他的だったかを覚えていれば、「学校さえあれば教育面は万全!」なんて思わないだろうに。「誰でも一度は子供だったけどみんな忘れてる〜♪」ってやつだね。
目に見えるものにしかリアリティを感じられないのか、子作りが絡んだ瞬間に2者の問題が、まだ産まれていない人物を含んだ3者以上の問題に変化する事実にあまりに鈍い。これも含めて教育の失敗なのだろうが、それはまた別の機会を設けるべき話だろう。
「可哀想」という言葉があるが、この言葉は本質的に「親に値しない人間の元に生まれてしまった子供」のためだけのものだろう。先に述べたように、選択が伴った結果は全て自己責任に帰属されるから、何が起こっても可哀想などということは決してないわけである。そもそも、自分で選んだのだことの結果ならば、人はどんな結末にも納得できるし、それを受け入れて次の選択に向かっていけるものだから、失敗が壁になったり尾を引いたりということがない。対して、支配の文脈でしか子供を位置付けられない親の元に生まれてしまって、選択のための知識も思考力も奪われ、そのせいで自己責任を味わう自由と接触する機会も無い子供はどうだろう。どんなに良いことも悪いことも、それら何もかもが自分のお陰でも自分のせいでもないのである。全ては自分の周辺を勝手の流れて行くだけで、自分はそれを起こす力も止める力も持たないということを、最大関数である親の影響下で日々言い聞かされるのだ。これ以外に可哀想な状況などあるだろうか。そう、可哀想とは自由と自己責任とを知ることができていない状態を指すのだ。
だから、「可哀想という本物の不幸」を根絶する為にも、養育だけしか能がないままの人間は決して親になってはいけない。養育が完成されているなら、それを土台にして次は教育段階まで完成させなきゃ、そもそもの養育的土台の存在意義が無い。この構造は、例えるなら、世代間で価値観の軸が違っていて、尚且つ世代を経る毎に内容が高度化してるのと同じ。戦争を体験した世代は、飢えた体験から「食べ物」が価値基準だし、バブル全盛期に働き盛り(今となっては意味の無い言葉だが)と言われる立場だった人々の価値基準は「お金」である場合が多い。そして、この二者は互いに物質的なレベルを希求しているから、互いを理解し易い。そして、今の20代や30代の価値基準は「存在意義」なのだとか。生活水準の向上に伴って、価値観の軸が物質レベルから精神レベルに高度化してるわけだね。
問題なのは、物質的な価値観の持ち主と精神的な価値観の持ち主とでは、そう簡単に分かり合えないということだ。そして、今現在絶賛子育て中の親をやっている(やれているかは別にして)人々は、自分をわかってくれない世代を親に持っている場合が多い筈。わかってはくれないが、それでも親だから最大関数にはなってしまう。すると、自分が子育てする時にも「物質レベルさえ満たしてやれば十分だろう」と無自覚の内に思ってしまう。それが結果して、養育という部分集合を全体集合だと見間違えた親擬きが量産されてしまうわけだ。
とはいえ、それもこれから少しづつ変わっていくかもしれないね。精神レベルの価値観を持った世代が代を重ねていく中で、養育だけではなく教育も当たり前になって行く。教育ママなんてものが現れ始めたのはその兆候かもしれない。今はまだ手探りだし、自他の区別ができない親が子供を道具のように扱ってしまっている文脈が多いのだろうが、そこは気付ける人には気付けるレベルの、改善可能な問題に過ぎないだろう。もちろん、再びこの国が他国の侵略戦争に応じざるを得ない事態に追い込まれでもしたら、元の物質レベルを価値観とする世代に逆戻りだろうがね。
話を子供とのやり取りの在り方に戻そう。どんなに学んだところで、誰にだってわからないことはあるわけで、どんなことにも知識を提示できる親であれ!というのは流石にナンセンス。だから、もちろん、わからないことはあっていい。そこでやらなきゃならないことが、一緒に考えることを楽しむこと。それができるマインドを持たなくちゃならない。とはいえ、そもそも感情に基づかない論理的な会話というのは、論理こそが主体であって自分の立ち位置が主体では無いから、正しく運用できている限りでストレスはなく、探求の楽しみだけがあるもの。故に、これはわざわざ指摘するまでもないかもしれない。一方で、子供との会話が楽しめていないことが自覚された時、自分が論理ではなく特定の誰かに肩入れしてしまっていること。そんな情けない姿を我が子に晒している可能性に想い及ぶきっかけとしては、知っておいても全く損の無い知識だろう。
まとめると、自己責任と自由は表裏一体だと知りましょう。子供を「可哀想」にしない為にも、養育と教育とはワンセットで子育てだと知りましょう。人間なら子作りは選択肢だと知りましょう。と言ったところだ。