Save My LIFE

他人を省いて自分を生きる

生まれつきで命に関わらないなら、病気も障害も無理に治さなくていい。

【機能不全と生存条件とを区別する】

生まれ持っての病気や障害を「治すべき機能不全」とするのはおかしい場合もある。何故なら、生まれ持っているというその時点で、病気や障害と呼ばれるような性質も含めて、間違い無くその人の一部だから。
そもそも、「治す」という発想の裏には「あるべき理想的な状態がある」という前提が暗黙の内に存在しているわけだが、生まれた時から何かを患っている人物に「あるべき理想的な状態」を想定するのはおかしいでしょ。最初からこうなんだから。
もちろん、命に関わるような病気や障害であれば、そもそもの「生存」そのものが正常には成り立っていないことになるから、それは「生者として生まれ持った性質」ではないと言えるため、「治すべき機能不全」に当たるが。
だが、生存を脅かすものでない性質ならば、その限りでないはずだ。体質という言葉の意味を敷衍すれば、生まれつきの障害やら病気やらも体質の1つに過ぎないのだし。それを抱えた状態で生きていくことが十分に可能であるなら、病気も障害も個々人がそれぞれに抱える生存条件の1つに過ぎない。
例えるならば、
「どんな経済状況の家に生まれたのか?」
「どんな親の元に生まれたのか?」
「どんな時代や文化圏に生まれたのか?」
こういった条件と大差無いだろう。
時代や文化圏のように例外無く誰もが取り込まれているグルーピング条件ではなく、より大きなグループの中に分散して分布しているから、相対的に目立ってしまって「特別扱い」が伴うだけ。「個人の生存に伴う多様な条件の1つ」にカテゴライズする見方をするなら、決して特別なことではないはずだ。
言うなれば、手足を失うなどの大事故に遭った人とて、数ヶ月から数年も経過すれば、主観的なストレスレベルは事故前の状態に回帰するのと同じような話。捉え方(=位置付ける座標)1つで役割(=機能)評価も変わる。位置付けと評価とは表裏一体だからね。コップの中に位置付けられた水は飲料水という役割評価になるだろうし、プールの中に位置付けられれば遊泳スポットという役割評価になるだろう。
あるいは、「可塑性の存在を考えると、脳は直すものじゃない」ってのと同じ。出来ることというかやるべきことは、単に「今現在の機能のポテンシャルを最大限に発揮する上で障害になってる要因を取り除くこと」だけ。脳は可塑性という機能があることからも明らかである通り、もとより絶えず変化するようにできている器官だ。この事実をベースに考えた時、脳を損傷した人が「取り戻すべき元の状態」なんてものがあるのだろうか?出来ることは、損傷も「自分の脳に起きた可塑的ね変化の1つ」として受け入れた上で、あたかもそれが最初から備わった機能の1つであったかのように生きていくことではないだろうか。つまり、欠損ではなく変化の1つという見方だ。単に失ったんじゃない。「無い」状態が「ある」という見方から、「全ては今の自分の性質である」というマインドを構築するわけだ。


マインドセットコペルニクス的転回が必須】

「これまで」を軸に見ていれば人生は後悔しかない。何故なら、過ぎたことについては幾らでも「たられば」を考えることが可能だから。故に過去志向的な発想の場においては、「今のこの現在」は、選べたかも知れない「別の現在」の価値評価を絶対に超えられないようにできているのだ。原理的にね。
だからこそ、私たちは選択のレベルにおいては、あくまでも「これから」だけを見ている必要がある。過去志向的な「原因論」ではなく、未来志向的な「責任論」で人生を位置付け評価するのだ。選択を「過去の原因ありきの変えられない運命」とみなすのではなく、「未来での責任の取り方次第で路線変更可能な選択」とみなすわけだ。
こう考えると、「選択」という言葉の対義語は「運命」かも知れませんね。現状外志向の成長マインドセットからは「人生は自分が決める選択の断続である」という態度が。現状内志向の硬直マインドセットからは「人生は決められた運命の連続である」という態度が、それぞれ発露するという具合かな。
これと同様に、生まれついての「事実上、性質としか言えないコンディション」については、そもそも存在しない過去に対して過去志向になる必要は無いわけだし、「これから」を認識の軸に据えて展望的に生きた方が健全じゃないでしょうか?
もしかすると、「患者使い」されている本人的には、ここまでの話は当たり前なのかも知れません。であれば、この話は彼らを取り巻く人々に向けたメッセージであると思って頂いて構いません。治す必要の無いものを治すことに掛ける時間のために、彼らから限りあるチャンスを奪っている心当たりがある人は少なくないのではないでしょうか。
生まれついての性質として病気や障害を持つ人に限りません。後天的にそうなった人にしても同じことです。私の知り合いに、事故で記憶喪失を起こした人がいますが、その人は単に事故前とは違う自分だから出来る挑戦に勤しんでいるだけのことで、別に喪失を悲しんでなどはいません。
どうでしょう。失ったにしろ手に入れたにしろ、単に今までと違う別の自分になった程度のことだと思えばいいのですよ。実際、その通りなのですから。自分が誰なのかを説明する場面を想像して下さい。自分以外の別の存在を頼りにせずに自分を定義できる人なんていないはずです。自分を説明しようと思ったら、例えば「日本に住んでいる」とか「誰々の息子だ」とか「どこどこの会社員だ」とか、必ず何らかの「関係物の交点」としての自分しか定義できないものです。
つまり、関係性が変われば、それは「私が別人に変わった」も同然なのです。であれば、手足を失ったとか記憶を失ったとか、大金が舞い込んできたとか出世したとか、自分を取り巻く環境が変わったその時点で「今からの私はさっきまでの私とは別人だ」と考えた方が冷静に立ち回れるでしょう。


【私たちには「いま」しかない】

先程、「私とは関係物の交点」であると言った通り、人はそもそも連続的に繋がった過去の延長線上の存在ですらありません。座標軸上のグラフというものが、面積を持たない点の集まりであるように、私たちも過去の延長ではありません。あまりに近くに並んだ点同時が繋がりを演出してる、なんならでっち上げてるだけです。
もっと現実的な話をすれば、時間というものがそもそも連続的ではありません。私たちが暮らすこの時間の流れというものは、細かく区切っていくと、もうこれ以上は細かくできないところに行き着きます。これが物理学の世界ではプランク定数などと呼ばれていて、私たちの存在が不連続であることの端的な 証拠になりましょう。
失ったり手に入れたりして人が変わってしまう人というのは、自分を過去を基準にその延長で見ているこのによって、人格が機能不全を起こしているようなものです。本当はもう過去のあの日の自分とは切り離された自分なのに、無理して今まで通りの自分でいようとするから、必要以上に悲しみに暮れたり、散財したり金の亡者になったり、出世して共感能力が無くなったりするわけです。断続的にできている現実世界で、そんな現実の有り様に適合しない辻褄合わせが上手くいかないのは当たり前なんですよ。
自分を取り巻く関係性が変わったのなら、それに適合する新しい自分になる必要があります。言うなれば、ホメオスタシスフィードバックです。環境の変化に合わせて身体的な状態を保つことによって、外界との間に恒常性を築くように、精神レベルでも同じことをやるだけです。ただし意識的にね。そして、未来に向かってね。
そもそも、ホメオスタシスとは未来に向かってフィードバック関係を持っているものです。恒常性維持機能という字面から「現状に留まろうとする」機能のように思われがちですが、実態はだいぶ違います。
ここまでの話から気付いている方もいるかも知れませんが、ホメオスタシスが過去に向かって働くとしたら、おかしなことが起きます。断続的な時間の流れの中に過去は存在しない。もしくは、あっても今現在とは隔たってしまっているから、ホメオスタシスが働く対象になり用がないわけです。あるのは「今この瞬間」だけであるはずです。そして、今この瞬間というのは、取りも直さず「これからを形作る選択肢」のことであるはずです。だから、ホメオスタシスは本質的に未来とフィードバック関係にあります。
物理レベルでも考えてみましょうかね。ホメオスタシスとして有名なのは呼吸や発汗という生理機能の類ですが、これらも結局は未来志向的に機能していると言えます。なにせ、呼吸したり発汗したりして身体機能を調節するのは、突き詰めれば生きるためですから。言い換えると、「未来においても生存してる自分」を成り立たせるためですから。こう考えると、やはりホメオスタシスは本質的に未来に向けて働いているとしか考えられません。もしもそうでなければ、私たちは次の瞬間には死を迎えていることになるのですから。


【生命とは何か?】

さて、このように分析していくと、生命現象の正体すらわかってくる気がしますね。「今この瞬間の私」を定義付けるものは「今この瞬間の関係性」でしたが、時空連続体の発想をベースに「時間も空間の次元の1つ」と捉えることにしましょう。
別に不自然なことではありません。私たちが空間を空間的なものとして感じられるのは、立体方向に自由自在に移動が利くからです(空を自由に飛べはしませんが)。このように「体感」を鍵に時間を考えましょう。私たちが時間を流れては過ぎゆくものみたく感じるのは、未来が目に見えず、そして任意のスピードで移動することも叶わないからです。
ここで逆に考えてみましょう。もしもタイムマシンが発明されて、私たちの誰もが自由自在に時間を移動したり、未来や過去の出来事を見ることができるようになったとしましょうよ。こうなった時の時間って、もはや空間と同じ体感で扱えませんか?空間上にあるものみたく手を伸ばせば届くし、もう不可視の謎な世界でもないわけです。立体空間と同じじゃん!となって頂けるとありがたいです。
さて、何が言いたいかと申しますと、時間を空間の次元の延長に位置付け直した瞬間に、「生きている私」あるいは「生きとし生けるもの」は未来という空間とのホメオスタシスフィードバックの成果、たまものだと言えるってことです。
つまり、生命現象とはホメオスタシスフィードバックである!という結論が導出できるわけです。


【もっと自由でいい】

閑話休題
元の話に戻りましょうか。
このように自分の有り様を理解する(=位置付ける)と、自分が選択する未来を自分の意思でしっかり決めていけば、それはどの未来と関係する自分を選ぶか?という課題に他ならず、自分はどんな存在にもなれる!と自己評価が改まるのではないでしょうか。どこまで行っても位置付けと評価とはワンセットの背中合わせですから。
もちろん、限界を知り諦めを付けて舵を切れる方向の範囲内での「自分」ですが。
ストレスが捉え方次第でマイナスにもプラスにも転じ得るように、どんな良いコンディションも悪いコンディションも先ずは良し悪しなんてないフラットなものと考えて、自分が利用したい形の評価のために位置付けを選んでいけばいいのです。
このようなマインドセットを使いこなせるようになれば、人生はもっと自由に生きられる場所になりましょう。
先ずは「己の限界を知る」という壁が立ちはだかってるわけですが。

ではまた。