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他人を省いて自分を生きる

科学の三要件を見直すべき時が来ている気がしてならない。

科学の三要件を見直すべき時が来ている気がしてならない。

社会科学には再現性がないから科学ではない!というような主張をする向きがあるが、それは本質的にどの学問でも同じだろう。抽象度が上がれば常に再現不能で説明不能の範囲が現れてくる。あくまでもうまく行ってるように見えるだけ。今現在まともに機能しているように見える法則も、必ずどこかに粗があることがわかってしまっているのが現代科学の宿命だ。それは科学それ自身がもたらした成果である不完全性定理不確定性原理の賜物であり、紀元前500年も前にシッダールタが見出した真実でもある。

そもそも、再現性がないから科学じゃないという主張は、非科学的というよりも反科学的ですらあり得る。例えば、幽霊や宇宙人について「科学的に実在が証明されていないのだから、いるわけがない」と言う人がたまにいる。この主張の自己矛盾がお分かりいただけるだろうか。そもそも科学は「今現在判明していないこと」しか研究対象にし得ない。これは学問の性質上当たり前のことだ。であれば、科学が存在し機能し続ける限り、人類の眼前には未解明の世界が広がり続けていることになる。そして、その空間の存在こそが科学の存在意義の根拠なわけだ。その未解明部分について、「科学が存在証明してないから幽霊や宇宙人なんていない!」と言えば、これは科学を主張の根拠に持ち出していながら、その実科学の存在意義を否定しているという明らかな自己矛盾の発露ではないか。正しくは「科学的に未解明だから何とも言えない」だろう。「いない」なんていう結論は出ていないのだから。

さて、このように考えると、「再現性がないから科学ではない」は反科学的だというのがお分かり頂けるだろう。科学には最初から再現性を問えないことがわかってしまった時代が今の私たちの立ち位置なのだ。それでも尚、これまで科学とされてきた営みに学問的役割を認めるのであれば、愚直にこれまでの前提を貫いた結果、これまでの活動全てを否定してしまうのではなく、柔軟に前提を切り替えて、正しく価値のあった部分と間違ったやり方で無意味だった部分とを上手く寄り分けて、科学の精度を高めようとする方が生産的な発想だと思う。

それに何より、アドラー心理学が科学たり得ないとされた背景にあるように、現行の三要件を持ち出してしまうと、学問は未来を扱えないことになってしまう。これでは実用性の面からも将来性の面からも、科学は役立たずの烙印を押されかねない。殊に人間が意思を持って関わって行く未来というのは、必ずしも過去の延長では説明できないのだから。

なにせ、量子論や時空連続体仮説のお陰で、時間は過去から現在ではなく、未来から過去に向かって流れていると解釈した方が適切な時代だ(もちろん、事実は「流れてすらいない」というものだが)。私たちが生きる現在とは過去にとっては常に未来なわけで、科学が過去しか扱わないのであれば、過去と切り離されて未来の因果で勝手に決まる空間である現在を説明できないことになる。時間を空間的に移動する術を持たない私たちには、結局「今現在」が全てだ。その今現在を扱ってくれない体系が何の役に立つだろう。誰に評価してもらえるだろう。誰が研究資金を出すだろう。
そういう二面的な意味での「現実性」から考えても、今の科学の態度はヤバいのでは?

もしくは、科学は過去のデータの蓄積だけを扱うと決め込んで、科学とは別に未来側の世界を扱う体系を人類は取り揃えるべきかもしれない。それを未来人が「研究活動」と位置付けるかどうかはわからないが。