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他人を省いて自分を生きる

共感力とは本質的に「他人の視点を推論する能力」でしかない。

共感力とは、本質的に「他人の視点を推論する能力」でしかない。
当たり前のことだ。他人同士が互いに全く同じニューラルネットワークを持ってるわけではないのだから、共感という現象における限界は「五感で知覚される物理空間の共有」までだ。同じ感情を抱くことまで含めて共感だと思われている嫌いがあるが、そんなわけはないのだ。そこまで要求したら「共感能力なんてものは存在しない!」が結論になってしまうからね。
背理法的に考えてみるとイメージしやすいかもしれない。例えば、虫や植物、魚やエビの気持ちを想像するのが困難であることを想像すればわかるだろう(彼らに気持ちなるものがあるかは謎だが)。もしも、共感能力というものが互いの脳機能や感情を担うシステムの違いの壁を超えて発揮されるものであるなら、虫や植物、魚やエビの気持ちに同化することも可能であるはずだ。でもそれは無理でしょ。
ということは、人間同士の関係において感情までもが一致する、ないし一致した気になるのは、あくまでも「同じ人間同士だから」に過ぎないということだ。従って、共感能力を「存在するもの」とする場合、これが意味するところは「他人の視点を推論する能力」に落ち着くだろう。仏教徒に言わせれば、この定義すらも「現実は個々人の心のうちにあり!」とツッコミを入れられてしまうだろうが、取り敢えず「物理空間は共有可能である」ということで許してください。

さて、何故にこんな話をしたのかと言えば、「セルコントロール能力」を高めるための「共感状態」について、他人の感情まで分からなくても、単に相手の視点から見える世界を想像するだけでも十分に効果的であることが知られているからだ。
何が言いたいかというと、このような結果を出した研究が扱っている共感能力を「共感能力」と位置付けたとしても、やはり「感情状態の同化」までは「共感の定義」に含まれないと言えるということなのだ。
ですから、共感能力を鍛えたいと思っている人で「感情まで理解しなくちゃ!」と意気込んでいる方は、もう少し肩の力を抜いていいんでない?ということを伝えたかったのです。考えるに、先に挙げたような物理的な事情から言って、それは土台無理な話なのですから。

ところで共感能力と言えば、脳の側頭頭頂接合部という部分の機能をオフにすると、他人への共感だけではなく未来の自分の視点も消えてしまうのだとか。このことから分かるのは、脳にとって未来の自分は他人同然だということ。逆から見れば、他人の姿に未来の自分を見つけることができる。ってことでもあるね。
だから、「人の振り見て我が振り直せ」とか「他人を鑑に」なんてことが言われるのかもね。
閑話休題
これは、脳にとって現実と空想は区別されないのと同じ話だね。他人は自分の外側の世界の存在であるという意味において空想だし、未来の自分も今この瞬間の自分と乖離している意味で空想。
言い方を変えると、空想はちゃんと空想として、現実はちゃんと現実として捉えて区別するのが脳である。とも言えるのかな。