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他人を省いて自分を生きる

客観という意味での客観は存在しない。

客観という意味での客観は存在しない。

それは一重に、不完全性定理不確定性原理によって判明した成果であり、それ以前に宇宙に対する人間の矮小さを考えれば当たり前のことである。如何に情報空間の広大さが同範囲あたりの物理空間のスケールを超えていたとしてもだ。完全情報が無ければ完全情報保持者もいないことがわかってしまっているのが現代なのだ。
そして、客観という言葉はこのありもしない完全情報と完全情報保持者とを前提とした物言いである。しかし、無いものには誰もなれない。数学空間よろしく人間が恣意的にルールを敷いた世界ならば、それもあり得るのかもしれない。とはいえ、数学空間の客観性とは、「数学が演繹的な営みであるのは当たり前だから、当然、数学的演繹法という言葉は無い」のと同じで、数学という言葉自体が既に客観性を含意しているから、数学に対して客観を語ればトートロジーである。
従って、文脈を問わず、客観という意味での客観は存在しないのである。誰がどの角度から見ても同じ解釈を引き出せる現象やそれについての知識など無いのである。仏陀が仏教という哲学体系にて示した仮説が、現代科学によって証明された形である。宇宙は無限である。ただそれだけのことなのだ。
だからといって、「客観という言葉を使うのをやめましょう」と言うつもりではない。完全情報の存在を前提とした解釈を取り除いても、「客観」にはまだ「自分以外の視点からの解釈」という意味が残る。というか、心理学においてはこっちの使い方の方がメジャーかも。
だが、この意味で使う際に注意を要することがある。それは先にも述べた通り、「誰も無いものにはなれない」ということである。客観の意味を単に「主観(=自分)から距離を取ったもう一人の自分」のように考える向きは多いだろうが、それは間違いだ。距離を取ったところで、視点の持ち主が自分のままなら客観ではない。あくまでも主観の一側面に過ぎない。
では何を以って客観とするのかといえば、「特定の他人」になったつもりでいることである。要するに、人は知っている存在にしかなり切れはしないから、客観の事実上の意味は「存在している他人の視点を借りている状態」のことになるのだ。これが限界としての諦めどころ。それ故の正しい解釈だろう。