Save My LIFE

他人を省いて自分を生きる

発信するための読書で人生が変わります。

【言動が変わらないなら、読書はウンチクの引き出しにしかなりません】

 

こんにちは。

 

あなたは、読書についてこんな悩みを抱えてはいませんか。

・いまいち理解できた気がしない。

・どうにも記憶に残らない。

・自分の人生への落とし込み方がわからない。

あなたがこれらの悩みをの一つでもお持ちであれば、本記事から得られることは少なくありません。

 

本記事を読んで実践することで、

・理解力

・記憶力

・実践力 or 挑戦力

の全てが手に入ります。


決して難しいことは書いていませんが、一方で、挑戦するまで何も始らないことばかりです。

 

すでに読書における理解力と記憶力が十分な方であっても、

実戦や挑戦が伴わないなら、それはただウンチクを収集しているだけの自慰行為に過ぎません。

もう、ニセモノの自己効力感で、役に立たない自己満足に浸り続けることはやめましょう。

 

人生には限られた時間しかありません。

できれば、本気で人生を変える気持ちで読んでください。

要らない読書体験を省きに省いて、あなたの人生を現状から救い出してあげて下さい。

 

では、早速本題に入って行きましょう。

 

【本をトレードする】

 

同じ本を読んで、互いが読み終わったらそれを交換して、互いに読み直してみる。
同じ本を読んでも、それぞれが書き込んだり強調したりした内容は全く違うはずであるから、これをするだけで新しい視点がゲットできる。
この方法の利点は、本から手に入れた知識の発酵プロセスをショートカットできる点にある。
自分一人で同じ本を繰り返し読む場合、「以前と違う読み方ができる自分」に変わるまでには数ヶ月から数年の期間を要するもの。しかし、本を交換するこの方法であれば、一回目を読み終えた直後から新しい切り口での読書が可能になる。
注意点としては、なるべく自分とは違う価値観を持った人と本の交換をすることだろうか。
あなたと似たような価値観を軸に生きている人物は、本の読み方・その切り口の在り方だってあなたに似ているに決まっている。これでは新しい視点は得られまい。
だから、可能な限り接点の無い人と交換こするのが望ましい。ハードルは高いだろうけれど。
この読み方が有益である理由は、以下のような場合を想像すると直感的に理解できるだろう。

例えば、『嫌われる勇気』という有名な書籍の内容を理解するにあたって、あなたはYouTubeでの動画解説を頼ることにした。
有名な本については、幾人ものYouTuber達が解説動画を出している。それらを視聴して本の内容を掴もうとする時、あなたは一冊の本の理解のために、何本もの動画を観るのではないだろうか?
なぜそんな、一見すると周りくどく思える方法を選ぶのかと言えば、その方が確実に多くを得られることを、あなたが経験的ないしは直感的に知っているからではないだろうか。

という具合に、同じ本を読んだ別人の視点は、自分自身が一冊の本を咀嚼して消化するのに打ってつけのアプローチなのである。
そして、それはあなたと本を交換する相手にとっても言えること。だから交換してみよう。
とはいえ、やはりハードルの高さは否めない。知らない人にいきなり声を掛けるわけにもいかないのが心情だろう。それは私とて同じだ。
そこで使える方法の1つが、例に挙げたような解説動画を漁ってみることだ。ブログを綴っている人もいるだろう。そういうものを探してみるのが、間違いなく一番簡単だ。
とは言え、これだとこちらが一方的に利益を享受しているだけで、本の交換が起こすような「互いの利益」は望めない。

 

 

【自分がクリエイターになる】

 

そこで、もう一歩踏み込んだ案を用意しよう。もうお察しの方もいるだろう。そう。あなたが動画を投稿したりブログを綴ったりすればいいのだ。
これで得られるメリットは、何も知識理解の相互扶助に限らない。他人に伝えるためのコンテンツに落とし込もうとする取り組みそれ自体が、あなたの理解力をブーストしてくれること間違いなしだ。
おまけに、ブロガーの間ではよく言われることだが、ブログを書くと自然と同志が集まってくるものなのだ。クリエイターになることで、あなたの周りにも集まるであろう同志達との繋がりを利用すれば、最初に提示した方法である「本のトレード」が実現し易い環境が整うこと請け合いだ。
そして何よりも、クリエイターとして発信を続けて、あなたのコンテンツに触れた人から感謝の言葉の1つでももらえれば、社会への所属感と貢献感とを享受できる。
人間は所属感によって精神の安寧を、貢献感によって幸福を感じられる生き物であることが心理学的に明らかになっている。
クリエイターになって価値のあるコンテンツを提供するということは、社会の中にエージェントとしてあなた自身を位置付け、貢献者という評価・付加価値を付与する生き方を実現することに他ならない。
言うまでもなく、他にも同じ成果に辿り着ける選択はあるだろう。私が提案するのは、そんな生き方の内の一つに過ぎない。それでも、誰もが挑戦する価値のある取り組みだと確信している。
なぜなら、読書はどんな誰の人生の充実にとっても不可欠なファクターだからだ。そんな活動に主体的に参加できる簡単な方法があるなら、やる理由はあってもやらない理由は無い。

最初に言ったことをもう一度繰り返そう。挑戦するまでは何も始まらない。やるなら今すぐにでも一冊読み始めよう。
挑戦するかどうかは、今のあなた次第なのだから。

ゴールとは到達点ではなくプロセスそのものである!

【結果に向かうプロセスをゴールと呼ぶ】

「ゴールとは到達点ではなく」まで読んだところで、「新たな始まりである」と続くだろうと思った人が多いのではないでしょうか。そう思った人は不正解!今回私が言いたいことは「ゴールとは到達点ではなく、結果に向かう過程そのものである」というお話です。

【ゴールを到達点とすると生じる矛盾】

結果的に辿り着くであろう地点をゴールだと仮定すると、ゴール設定は無意味だという話になりかねません。なにせ未来は不確定で、誰にとっても予測不能ですから。予想が「当たった外れた」は論じることができても、予測が「成功した失敗した」は論じられないのが未来です。つまり、成功したように見える予測は単に当たっただけだし、失敗したように見える予測は単に当たっただけであり、根本的にはどっちが優れているも劣っているも無いわけです。未来予測は本質的にみんなあくまで後知恵。
例え話をするなら、競馬で当てた自分に何故か自信を持ってる人に対して、大半の人が「それはたまたまであんたの能力とは無関係だろ」と冷やかな視線を送るシーンを想像するとわかりやすいかもしれませんね。

【「スタート地点」も含めて「ゴール」】

あることを達成した後、それに伴って付いてくる結果結末が理想的なものだとは限りません。しかも、目的の達成という形で「やることはやってる」わけですから、結果や結末というコインが裏を向くか表を向くかは単なる運任せでです。「やることはやった」以上の手出しは誰にもできません。「コインを投げるまで」が人の手がコントロール可能なプロセスであり、落ちるのは自然現象ですから。人間の意思の及ぶところではないのです。スターウォーズ的にはジェダイがサイコロの目の出方をコントロールすることは可能ですが。我々常人には無理な話です。だから、ゴールとは達成すると決めた後、その目的の為に「今からでもやれること」に着手し、ようやく達成段階まで漕ぎ着けるまでを指す言葉として以外には定義しようがないのです。だから、目的達成の結果として「勝手に」立ち現れた到達点ではなく、到達点に向かう直前の「目的の達成段階まで」をゴールと言うわけです。
この説明がイメージし辛いとしたら、それはゴールを100メートル走みたくイメージしてるからでしょう。あの手のシーンではゴールテープとして設定された「点」がゴールの扱いになります。でも実際はそうではなくて、走り始めた瞬間、なんならスタート地点に体をセットした瞬間からゴールなのです。言うなれば、「臨んだときには既になっている」に近いイメージです。であるからして、スタートとゴールを表裏一体のものとみなしても間違いではありません。寧ろ、一枚のコインの表裏という捉え方こそ正しいと言えます。
金メダルを取ったオリンピック選手は、金メダルを取るその瞬間にゴールテープを切ったのでしょうか?そうではありません。金メダルを取ると決めて練習に勤しみ始めた瞬間からが「ゴールのプロセス」です。何故なら、それら練習の日々無くして金メダルの獲得は説明できないからです。向かう過程と達成の瞬間とは、言うまでもなく切り離せないのです。ですから、ゴールとはスタートの瞬間からを数える達成までのプロセスそのものに他ならないのです。
ただし、正確に言うと、その選手が金メダルを取るかどうかは実はどうでもいいことで、オリンピックで達成した最高のプレーという在り方こそがゴールです。何故なら、メダルの有無については、結局のところ運任せだからです。その日の審査員の気分や評価の基準、チームメイトの体調など、あくまでも「結果」である順位付けについては、自分がどれだけのパフォーマンスを発揮したかには半ば無関係な要因も数多く含まれるからです。故に、彼らの事実上のゴールは「最高のパフォーマンスの発揮」にこそあり、実はメダルの取得はただの結果なのです。
生前に評価されることなく亡くなったものの、死後に評価が高まった芸術家の作品群見て、彼らが生きている間の結末を以って無駄な人生と評価する人はいない筈です。彼らの人生は「描きたいように描く」ために十全に燃やされた筈です(想像)。描いている間の彼らの充実を思えば、それ自体が描くこと、表現することの本来的な目的の達成と言えるでしょう。
ゴールと結果とは現在と未来との関係性と同じく本質的に独立していて、思いどおりになるものではありません。なったように見えるのは「当たっただけ」であり、ならなかったように見えるのは「外れただけ」です。どちらにしても、そもそもコントロールはできてません。それらの結果に優劣はありません。

【「ゴールテープを切る」はやめて「スタートを切る」ことだけ考えよう】

そもそも、行動し始めることができる人というのは、達成点までのロードマップが可視化されるくらいに、既にはっきりと「やれること」が見えているから、迷いなくやりたいように進んでいけるわけです。とすれば、スタートを切ることそれ自体がゴールという空間に踏み出すことそのものだと言えます。達成点が見えている状況でのスタートだからこそ、その第一歩は既にゴールの一部に他ならない訳です。
登山は登り詰めるべき頂上がはっきりしていて、頂上からの景色の中のどこに今の自分がいるのか想像できるものです。そうすると、自分が今やっていることは「ゴールの景色の一部=ゴールの世界の一部」だと思えることでしょう。そして、実際に登り詰めて頂上からこれまでの道のりを振り返ると、やはり実際にそれまでの歩みはゴールの世界に不可欠なパーツになってるわけです。
故に、スタートからゴールまでの「線」的な捉え方でこそ、ゴールは定義されるべきです。決して「点」ではありません。ゴールには幅があります。幅のない宙ぶらりんなゴールなんてありません。もしそうだとしたら、そのゴールは過去とは何の繋がりもなく独立して存在してることになりますから、どうやっても実現不可能であるか、ある日突然自動的に達成されることになるでしょう。そして、そんなものはありません。

【幸福への片道切符は「ゴールの位置付け」だけで手に入る】

結果に頓着してしまったら、どんなゴールの達成にも喜びが無くなってしまいます。望み通りの結果が出たときには「もっと上手くやれたのでは?」と思ってしまうし、望んだ面とは違う面をコインが見せれば「あのときこうしてれば」とか「最初からやらなければよかった」などと思ってしまうものです。これでは誰もハッピーになれません。幸福に条件設定をすると、過去のたらればを考えてしまうようになり、決して幸福になれなくなるのと同じです。結果への条件設定は不幸への片道切符です。絶対にやめて下さい。
死ぬ時に「あれをすればよかった」「これをしなければよかった」と言うのでは、これまで生きてきた意味がありません。人間には生まれた時から「死」という不可避の「結末」があり、それは究極的に個人的な現象で、だからこそそれまでの「生き方」は死ぬ瞬間の自分の為にあると言えます。人生のデザインは死ぬ瞬間の自分の満足の為だけに設計しましょう。他人の喜びは後回しです。何故なら、あなたが嬉しければ、周りの人も勝手にハッピーになるのが人間という生き物で、逆に言えば、自分がハッピーになる以外に他人をハッピーにする方法など、そもそも存在しないからです。
例えるなら、自分がお金持ちじゃないと貧困に苦しんでいる他人を助ける手立てが無いのと同じです。割れ窓効果やピアプレッシャー、同じ空間で過ごすと女性の生理周期が同期するように、人間は良くも悪くも環境や周囲の人間に影響されるものです。ですから、自分が幸福になることは、同時に周囲の人間をも幸せにし、彼らの周囲の人間のまた幸せになっていく理想的な状態を生み出します。
これは、洗脳や催眠の極意が「自己催眠」にあるのと同じことです。カルトの教祖があんなにも信奉される理由は、他でもない本人が自分を神の使いや何かだと「確信」してるからです。
これを自分を幸福だと確信する方向で使えば、中田敦彦さんが言うところの「幸福洗脳」の実現ですよ。彼が実際にはどんな意味で言っているかは知りませんが、私に言わせればこの仕組みこそがまさに「幸福洗脳」ですよ。
結果に頓着せずに、今この瞬間を真剣に楽しむことができたなら、それがどんな結果をもたらしても満足できますから、「ゴールの世界を生き抜くこととしての、自由と自己責任との実践」は必然的に幸福への片道切符になります。どうせ世界の象り方には片道切符しかないならば、こちらを選びましょう。中には幸福からの転落を恐れて不幸ばかりを望む人もいるでしょうが、安心して下さい。片道切符なので実践さえできれば二度と落ちることがないのが、自由と自己責任のいいところです。ゴールの世界を生き抜く人生の完成形です。

自信の取扱説明書。「根拠の無い自信」こそ本物です。

自分がファンになれる自分になることで、メンタルブロックを外して「既になったつもりの自分」を演じられる。誰でもなる前はそうじゃないわけだから、結局は自分が「なった」と決めることでしか挑戦など始まらない。そして、このように考えられるからこそ、挑戦の本質は逆説的に「平常運行」にこそあるのだ。要するに、挑戦とは習慣化すると決めた瞬間。「なりきり」が始まる瞬間の「平常運行化」を意味しているのだ。故に、挑戦なんてものは実は存在しない。「自分はできて当たり前。まだできてないだけ」がその実態だ。
成功体験が生まれた時から伴ってる人間なんていないから、実は「小さな成功体験を積み重ねて自信にせよ!」には欠点がある。最初の小さな成功体験を作るための一歩を踏み出す方法を教えていないことだ。
この欠点を埋めるピースこそが、上記のような、言うなれば自己洗脳だ。そもそも、既になった自分でいることでしか、ゴールの為に登って行くべきステップも、そのために必要な要因も見えてこない。だから、確かに自信は大事だけど、いつまでも「目指している自分」のつもりでいるべきではない。「目指してる」というマインドは、裏を返せば「まだなれていない」ということを自分に擦り込み続けてるようなもの。それでは、何をやっても結局は同じところをグルグル回ってるだけ。現状外には一切手が届いていない。「これが自信ありき」の挑戦の実態。やれてないクセにやれてるつもりな自分に酔ってるだけ。
これを解消してちゃんと現状の外に飛び出す為にも、やはり必要なのは自信よりも「なりきり」だ。そもそも、自信があるから挑戦する気になるのだとしたら、それは既に達成したことの延長にあるってことだ。過去の成功体験が根拠になって支え得るものなど、言うまでもなくそれらの延長ってことになる。この時点で、自信ありきの挑戦はやっぱり挑戦になってない。
何の根拠も無いまま、全く知らないんだけど「取り敢えずやってみる」という姿勢。実はこれだけが本当の挑戦だ。だから、「自信を身に付けて挑戦だ!」は詭弁だ。それがやれてる人は、その分野でどうせいつか成功まで漕ぎ着けるし、未だやれてない人が求めてるものは「全く新しい学び」であるわけだから、自信を付けても動き出す根拠にならない。
挑戦において、本当の本当にスタートラインにあるマインドは、「自分はもうなってる」「自分はできる。まだできてないだけ」という姿勢以外の何ものでもないのだ。この発想自体が自信の根拠であるべきであって、過去の具体的な成功体験が自信の根拠になるのは危険だ。何故なら、過去の出来事の是非など、今後の人生次第で起こる過去への意味付けの変化でどうにでも揺らぐし、そもそも未来は過去の延長じゃないから。
それに、自信が持ててる時には既にゴールは視界に入ってるから、そもそも自信を付けるのは不可能。何故なら、それは目的ではなく結果だから。コントロール不能だ。要するに、ゴールが見えてきたから人はこれまでのやり方に自信を持つわけで、過去の成功体験を軸に自信を構築してるわけじゃない。もしもそういう人が居れば、それはいわゆる老害と呼ばれる類の人物であることが想像に難くないように、そのような自信の持ち方は有害だ。
大体、挑戦に自信が必要だなんてのは妄想だ。未来に何が起こるかは不確定である以上、自信という過去の栄光のたまものは、実は誰にとっても未来の選択基準にならない。そこに因果関係を見出すのは、単純におかしな話だ。自己矛盾だ。自力で未来を選び取る為のメソッドを求めて「自信」という手掛かりを見つけた筈なのに、未だに過去に囚われるやり方を採用しようとしている。この自己矛盾にはちゃんと自覚を持った方がいい。自信は自信でも、過去を基準にしない方。根拠の無い方の自信を選びましょう。
物理現象ならいざ知らず、心理空間に根拠があることは危険なことだと知った方がいい。根拠がある自信というものは、根拠が瓦解した瞬間に一切の効力を失ってしまうもの。だから老害という存在が生まれるわけでもある。例えば、戦争はいけないことだと言いながら、一方で自分が出兵したことは正しかったなどと曰う二枚舌の爺さんがいる。しかも、彼らは日米戦争がアメリカによる日本への侵略戦争であった事実を知っているわけではない。日米戦争を日本によるアメリカへの侵略戦争だと思い込んだままなのに、このように言うのである。彼らは、自分の生き方を肯定するのに必死で自己矛盾に気付かない。というか、気付きたくない。必死で気付かない振りをしている。例えば「戦争に参加して尚も生き残った自分」という「過去の実体験」を根拠に自己肯定をしてきた為に、今更それを覆せないのである。過去への意味付けを変えたくないのである。それが彼らを頑にする。
幸福に条件を設けると不幸になるのと同じ。お金があるのが幸せだとか、美男や美女を伴った人生こそ価値があるとか、社会貢献せねばならないとか、そういう条件付きの幸福や人生観を追い求めると、日々を健やかに過ごせることの素晴らしさが霞んで、自分で勝手に不幸のどん底に落ちて行くことになるのと同じ話。あまつさえ、原因が自分の根拠付けの対象選びにあることに気付かず、自分が作った不幸な箱庭を「made by 他人」だと思い込んでしまう。こうなると、自分の境界がわからなくなる(=「自己の範囲」を定義できていない状態になる)ことで世界が自分とそれ以外との単純な二項対立でしか見れなくなって、自分を否定する人全員が敵対者に見えてくるわけだね。別に、拒絶されてるわけじゃないのにさ。逆に、同調してくれる人がみんな味方に見えて来る。別に、肯定されてるわけじゃないのにさ。要するに、客体の中に観測主体であるはずの自分が同化するところまで堕落した為に、自己中心的な視点しか持てなくなった結果だ。俯瞰的な視点からなら、自分と賛成側の他人と反対側の他人と、少なくとも三項共存以上には見えるものさ。
お分かりだろうか。人が頑固になったりご都合主義になったりする理由の一端がここにある。実体験を根拠にしてしまうと、その意味付けを頑に守る必要に迫られるから、頭が硬くなるのだ。思考が停止して知能が下がり出すのだ。「無批判な拒絶と同調」、「批判に基づく否定と肯定」との区別ができなくなるのだ。時代が変わっても尚、従来のやり方が正しいと信じて疑わない、おべっか大好きな上司なども全く同じ。高学歴で頭がいいはずの人達に限って、寧ろ旧態依然としたやり方が大好きで、周囲から見ると柔軟性の欠如した頑固者に見えるもの。そんな彼らが、自分と近しい人達だけで閉鎖的かつ排他的な集団を構築しがちなのも皆同じ理由。過去の「具体的な」成功体験を自信の根拠にしていることが原因だ。例えるなら、元薬物中毒者が他人を薬物中毒から守る活動に打ち込んでいるように見える時、その実態は、薬物と対立する自分を演じその姿を人々に見てもらうことで、他でもない自分自身が中毒者に逆戻りできないようにすることが本当の目的なのと似たようなもの。あの手のコミュニティは、場合によっては「わざわざ守らないと勝手に崩れてしまう程度の脆さ」の裏返しなのだ。あまり健全だとは思えないね。彼らのようになって後輩のお荷物にならない為にも、「事実ありきの自信」には早々に見切りをつけた方がいい。
かと言って、自信が無いのも勿論問題だ。そういう人は簡単に他人の支配を受けるから。軸がブレブレの心配症な人ほど、詐欺に引っかかりやすいのと同じかな。自信はもっと毒にも薬にもならないような性質のものでいい。事実みたいに形があって、ともすればしがみ付けてしまうようなものではなく、思い込みのように根拠も形も無くて、それ故にいつだって柔軟に切り替えられるもの。過去ベースな現状の自分を肯定する為じゃなくて、未来に立ち向かえる現状外の自分を肯定する為のもの。だからこそ、対立する他人の正しい意見を取り入れることが、「今の自分」にとって痛くも痒くもなく、寧ろ「未来の自分」の糧にしかならない。故に、いつだってオープンなマインドでいられる自分を保証するもの。
この程度が最強かつ健全で正常でしょうね。自分にとっても他人にとってもね。

養育だけの子育ては片手落ち。教育あっての子育てです。

【養育×教育=子育て】

 

正しい知識と選択肢を提示する。親が子供にやっていいのは、結局のところこれだけ。
例えば、子供が布団の上で遊んでいるのを見つけて、「布団はパジャマに着替えて寝る時だけ使うべきところだから、布団で遊んではいけないよ」と指示するのは親としてはアウト。正しくは「刺激制限療法という考え方があってね、人間は布団やベッドで寝る以外の活動をしてしまうと、脳が勝手に『布団は寝る場所ではない!』って思い込んでしまうんだよ。だから、布団で遊ぶと眠れなくなるよ。これを知った上でどうするかは君の自由。私は毎日ぐっすり眠りたいから、布団では寝る以外のことをしないけどね」が正解。
正しい知識を与えた上で、必ず選択肢を残して選ばせること。これが自己責任の意識を育むのだ。親の側としても、正常な思考力が働いている人物であれば、命令支配するよりも実はこっちの方がはるかに楽チン。何故なら、子供と感情の次元で対立する必要が無いから。自他の課題の区別ができないせいで、勝手にストレスを溜め込んで心をすり減らすという事態に発展しようがないわけさ。互いが互いに自己責任で生きていることを尊重しあえるから。尊重というか、それが本来ならば当たり前だと気付くから。
もちろん、日頃から学習意欲のある親である必要があるが、そもそも学ぶ意思は人間として必須のものだし、それが無いなら子供を持たなければいいだけの話。人間は動物と違って、子供を作ることを「選択する」生き物だからね。動物は本能のままに選択することなく子作りに励むものだが、人間は子供を「作らない選択」ができる。なので逆説的に、人間の子作りは「選択」だと言える。本能ではなく選択である以上、その結果に自己責任が伴うのは当たり前。自分で選んだのだからね。従って、それが果たせそうにないことが事前にわかっているなら、子作りを「選択しない選択」もしっかり自己責任の内だ。
思考が停止している為に、「結婚したら子供を作って当たり前」と思い込んでいる人も多いが、それは産まれてくる子供が持つ「養育&教育を受ける権利」を無視していることに気付いた方がいい。「養育される権利」の方には分別のある親の卵が割と多くて、家庭の経済事情に鑑みた子作り計画をする人も少なくない。忘れられがちなのは「教育される権利」の方。こちらに思い及ばないまま子供を作る親擬きが多すぎ。
教育無しには育ててると言えないでしょ。人間は動物じゃないんだから、体だけ育っても「その人自身」として生きられるわけがないのだし。頭も相応に育っていてこその人間だという当たり前の事実が、何故だか忘れられがち。「子育て」とは「養育+教育」のことであって、どちらか一方だけでは明かに片手落ち。養育だけして子育てしてる気になってる人は、その勘違いを速かに正した方がいい。いつも家にいない一方で、会社でお金だけはちゃんと稼いでくる旦那から偉そうな態度を取られてる奥さん方にはイメージし易いかもね。
学校や塾があったところで、結局のところ、親が子供の最大関数であるのは厳然たる事実だ。自分が受けた学校教育がどんな下らないものだったか。自分が通った学校の環境がどれだけ閉鎖的で排他的だったかを覚えていれば、「学校さえあれば教育面は万全!」なんて思わないだろうに。「誰でも一度は子供だったけどみんな忘れてる〜♪」ってやつだね。
目に見えるものにしかリアリティを感じられないのか、子作りが絡んだ瞬間に2者の問題が、まだ産まれていない人物を含んだ3者以上の問題に変化する事実にあまりに鈍い。これも含めて教育の失敗なのだろうが、それはまた別の機会を設けるべき話だろう。
「可哀想」という言葉があるが、この言葉は本質的に「親に値しない人間の元に生まれてしまった子供」のためだけのものだろう。先に述べたように、選択が伴った結果は全て自己責任に帰属されるから、何が起こっても可哀想などということは決してないわけである。そもそも、自分で選んだのだことの結果ならば、人はどんな結末にも納得できるし、それを受け入れて次の選択に向かっていけるものだから、失敗が壁になったり尾を引いたりということがない。対して、支配の文脈でしか子供を位置付けられない親の元に生まれてしまって、選択のための知識も思考力も奪われ、そのせいで自己責任を味わう自由と接触する機会も無い子供はどうだろう。どんなに良いことも悪いことも、それら何もかもが自分のお陰でも自分のせいでもないのである。全ては自分の周辺を勝手の流れて行くだけで、自分はそれを起こす力も止める力も持たないということを、最大関数である親の影響下で日々言い聞かされるのだ。これ以外に可哀想な状況などあるだろうか。そう、可哀想とは自由と自己責任とを知ることができていない状態を指すのだ。
だから、「可哀想という本物の不幸」を根絶する為にも、養育だけしか能がないままの人間は決して親になってはいけない。養育が完成されているなら、それを土台にして次は教育段階まで完成させなきゃ、そもそもの養育的土台の存在意義が無い。この構造は、例えるなら、世代間で価値観の軸が違っていて、尚且つ世代を経る毎に内容が高度化してるのと同じ。戦争を体験した世代は、飢えた体験から「食べ物」が価値基準だし、バブル全盛期に働き盛り(今となっては意味の無い言葉だが)と言われる立場だった人々の価値基準は「お金」である場合が多い。そして、この二者は互いに物質的なレベルを希求しているから、互いを理解し易い。そして、今の20代や30代の価値基準は「存在意義」なのだとか。生活水準の向上に伴って、価値観の軸が物質レベルから精神レベルに高度化してるわけだね。
問題なのは、物質的な価値観の持ち主と精神的な価値観の持ち主とでは、そう簡単に分かり合えないということだ。そして、今現在絶賛子育て中の親をやっている(やれているかは別にして)人々は、自分をわかってくれない世代を親に持っている場合が多い筈。わかってはくれないが、それでも親だから最大関数にはなってしまう。すると、自分が子育てする時にも「物質レベルさえ満たしてやれば十分だろう」と無自覚の内に思ってしまう。それが結果して、養育という部分集合を全体集合だと見間違えた親擬きが量産されてしまうわけだ。
とはいえ、それもこれから少しづつ変わっていくかもしれないね。精神レベルの価値観を持った世代が代を重ねていく中で、養育だけではなく教育も当たり前になって行く。教育ママなんてものが現れ始めたのはその兆候かもしれない。今はまだ手探りだし、自他の区別ができない親が子供を道具のように扱ってしまっている文脈が多いのだろうが、そこは気付ける人には気付けるレベルの、改善可能な問題に過ぎないだろう。もちろん、再びこの国が他国の侵略戦争に応じざるを得ない事態に追い込まれでもしたら、元の物質レベルを価値観とする世代に逆戻りだろうがね。
話を子供とのやり取りの在り方に戻そう。どんなに学んだところで、誰にだってわからないことはあるわけで、どんなことにも知識を提示できる親であれ!というのは流石にナンセンス。だから、もちろん、わからないことはあっていい。そこでやらなきゃならないことが、一緒に考えることを楽しむこと。それができるマインドを持たなくちゃならない。とはいえ、そもそも感情に基づかない論理的な会話というのは、論理こそが主体であって自分の立ち位置が主体では無いから、正しく運用できている限りでストレスはなく、探求の楽しみだけがあるもの。故に、これはわざわざ指摘するまでもないかもしれない。一方で、子供との会話が楽しめていないことが自覚された時、自分が論理ではなく特定の誰かに肩入れしてしまっていること。そんな情けない姿を我が子に晒している可能性に想い及ぶきっかけとしては、知っておいても全く損の無い知識だろう。
まとめると、自己責任と自由は表裏一体だと知りましょう。子供を「可哀想」にしない為にも、養育と教育とはワンセットで子育てだと知りましょう。人間なら子作りは選択肢だと知りましょう。と言ったところだ。

弔辞の力の正しい使い方。

弔辞の力の正しい使い方。

弔辞は死というゴールから見た評価の集大成といえる。よって、他人に対して「彼彼女はどんな弔辞を読まれることになるだろうか?」と考えてみると、相手がどんな人間なのかはっきりしてくる。この時のポイントは、どんな弔辞が「書かれるか」ではなく、どんな弔辞が「読まれるか」をイメージすることである。
そもそも弔辞とは、参列した多くの人々に聞かされるものである。故に、その場に居合わせた誰もが肯ける内容を綴る必要がある。書くシーンではなく読むシーンをイメージすることで、この点が強調される。すると、単なる主観的な思い込みがある程度排除されてより中立的な位置付け評価を下しやすくなる筈だ。
そして人間というものは、その思考力で以って、日々何らかの目標を作り出しては目の前に置いて、それを行動指針(言うなれば「ドグマ」)として生きているものである。従って、個人が辿り着き得る最終到達点である死の瞬間を軸に見てやることで、彼彼女が何を成すためにどんな風に生きようとしている人間なのかがわかる筈だ。それは本人が自覚しない生き様かもしれないし、本人の理想通りの生き様かもしれない。あるいは、途中で道を踏み外した結果かもしれない。何はともあれ、この見方をすることで、対人間を想定した審美眼が磨かれること間違いなしだ!
しかし、話はここで終わらない。このアプローチが真価を発揮するのは、これを自分自身に向けて行った時だろう。『7つの習慣』でも書いてあったことだが、著者は「ゴール設定のために、自分が読まれる理想の弔辞をイメージせよ!」と述べた。私はここにもう一つの手続きを加えたい。現状の自分が死んだ時に読まれるであろう弔辞の内容もイメージせよ!だ。
自己啓発の類にありがちなミスとして、理想的なゴールを思い浮かべることで、結果手に現状肯定を来してしまうというものがある。どういうことか。人間の脳は現実と想像をわざわざ区別して処理してはくれない。脳にとって現実と想像とは、処理過程の上では「同じもの」として扱われる。その結果何が起きるかというと、単に想像しただけで未だ何も始まっていない理想像を、既に達成したタスクだと思い込んでしまうのだ。その結果、モチベーションが失われて、何も手を付けないまま終わってしまうのだ。
卑近な例としては、勉強計画が挙げられるだろう。私を含めて誰もが一度は陥ったことがあると思う。未だ全く勉強していないというのに、勉強のスケジュールを立てただけで「やった気」になって満足してしまうアレだ。こうなると折角の計画も台無しで、今日こなす筈だったタスクが明日に後ろ倒され、本来なら明日やる筈だったタスクと同時に片付けることになり、当日になると面倒臭くてやれない。すると一日あたりのタスク配分を減らせばいいという発想になり、その計画が立った段階でまた満足して、同じことが繰り返される内に一日あたりのタスク配分がゼロに戻っているのだ。やるだけやったホリエモンとは明らかに違った『ゼロ』への回帰だ。
こういう偽物の自己満足や自己効力感を得るためだけの計画やゴール設定を、「絵に描いた餅」「画餅」とか「妄想」と言うのだ。
そして、『7つの習慣』における弔辞の設計もこの問題を未解決のままにしている。理想型だけを描いてしまっていることがその原因だ。であれば、そんな理想からかけ離れた絶望の未来も同時の並べてやればいい。それが「現状の自分のまま死んだ場合に読まれる弔辞」だ。ちなみに、このようなゴールを達成するまでの障害を事前に想定しておくことを「心理対比」と言って、実際に一定の効果が確認されてる。障害をイメージしておくことで、脳が「もうやった」と勘違いするのを予防するわけだ。
もしくは、コーチングの分野で言うところの「ストラクチャーバリア」を張るのも一つの手だ。これも現状肯定を回避する手立ての一つなのだが、心理対比とは大分やり方が異なる。心理対比がプラスをマイナスで打ち消す発想であるのに対して、こちらはプラスをそもそもプラスにしない発想だ。どんなものかと言うと、ゴールを思い描く時に「なりたい」や「できる」ではなく「もうやってる」「既にこうだ」と自分に言い聞かせるのだ。
要するに、現状肯定が生じる原因は、そもそも今現在の延長にゴールが設定されているせいで、「このまま何もしなくても、ゴールは勝手に達成されるさ」と脳が勘違いを起こすことにある。であれば、「今現在の延長にゴールを設定するのをやめれば良くない?心理対比がそうであるように、一定のストレスがゴールに向かうモチベーションを生み出すんでしょ。それなら、改竄も言い訳もしようのない現在において、既にゴールは達成されているというデタラメを脳に吹き込んでやろうぜ。そうすれば、認知的不協和が働いて、理想と現実のギャップを埋めよとする意識が芽生えること間違いなしでしょ!」みたいな考え方だ。
デスクチェアの業界で例えるなら、心理対比が「座りっぱなしが体に悪いなら、座りっぱなしが問題にならない椅子を作ればいいじゃない」と言ってアーロンチェアをデザインする発想であるのに対して、ストラクチャーバリアは「座りっぱなしが体に悪いなら、そもそも椅子なんか無ければいいじゃない」と言ってスタンディングデスクを発明する発想だね。
ちなみに、認知的不協和というのは、理想と現実とがかけ離れてしまっている時に生じる不快感のこと。人間はこの状態に置かれると、何としてでもこれを是正しようと、無意識が非常にクリエイティブに働くことがわかってる。
面白い話を紹介しよう。皆さんは、助けた人間と助けられた人間との2者がいる時、どちらがどちらのことを好きになりやすいかわかるだろうか?捻くれなしで自然に考えるなら、助けられた側が助けた側を好きになりそうなものだが、実際は逆だ。助けた側が助けられた側を好きになる確率の方が圧倒的に高いのだ。
これはどういう心理的な働きなのか。例えば、川で溺れている子供をあなたが助けに行ったとしよう、水というのは恐ろしいもので、膝下程度の浅い川でも人は溺死し得る。それを分かった上で、それでもあなたは子供を助けるリスクを負ったわけである。この時あなたの脳では、こんな記憶の書き換えが起こる。
「こんなリスクを負ってまでわざわざ助けた子供なのだから、私はこの子供が好きであるに違いない。でなければ助けてなんかいない筈だ!」
つまり、先に述べた理想と現実とのギャップが起こって、いつの間にやらあなたの脳内では、助けた相手のことをとっくに好きだったことになってしまっているのである。これが認知的不協和の働きである。
結局のところ、人間は不満によって生じる認知的不協和の力無しには何もできない生き物なのである。上の例でもわかる通り、人は元来、「これだ!」という理由無しにはなにもしたくないのである。だからこそ、間違って助けてしまった時に、「私はこの人が好きだ」なんていう言い訳がましい辻褄合わせが必要になるのだ。認知的不協和の働きを逆向きに考えればそういうことだ。人は不満という理由無しには、不合理すぎて挑戦的になれないのだ。だから、目標達成には必ず認知的不協和を生じさせる不満が必要で、その為には現状肯定を断固として回避しなければならない。今回は、そのために心理対比とストラクチャーバリアという2つのアプローチを紹介しました。皆さんのお役に立てると嬉しいです。
ではまた。

リビングのデザインにテレビは要らない

リビングのデザインにテレビは要らない。

リビングで勉強する子は成績がいいという研究結果があるようだけど、あれってリビングが勉強に敵う環境にある家の子は成績がいいってだけだよね。要は、フレンチパラドクスや酒は百薬の長の誤り、朝食を食べる子ほど成績がいいってのと同じね。
そもそも、大半の家のリビングにテレビが置いてあるであろう点を考えると、単にリビングで勉強していることが学力の向上に繋がる筈がないんだよね。テレビ視聴は思考力とIQの低下しかもたらさないわけだから。
とすると、正確には「テレビの無いリビングで勉強する子ほど学力が高い」なのだろう。これならば辻褄の合った説明が可能。テレビというストレッサーが無いお陰で、思考停止や不要な焦りが無く、結果的に家族間の「論理性のある会話」がテレビがある場合よりも成り立ちやすいことは想像に難くない。まともな会話、まともなコミニュケーションが成り立つ空間が自宅にあれば、家族の誰もがそこに集まるのは必然的であり、そこでのコミニュケーションが子供のIQを育むのもまた必然。結果、勉強を含め、リビングが生活の中心になるような健全な家庭環境に育つ子供は学力が高い。ただそれだけのことだろう。
テレビがあるリビングで同じ結果は出ないし、そもそもテレビがある家庭のリビングはコミニュケーションが希薄かつ杜撰になるから、家族の誰にとっても生活の中心にならない。当然、子供は自室に篭るなり外に出かけるなりして勉強することだろう。
これが「リビングで勉強する子は成績がいい」の実態だろうね。ただし、テレビがあるリビングで勉強しても学力向上に繋がりそうな仮説は成り立つけど。例えば、テレビの雑音があり、テレビの内容に一喜一憂している頭の悪い家族の姿が視界にあるという環境での勉強は、もしかすると、子供にとってはノイズを排除してどこでも集中できるコンディションを作る訓練になっている可能性がある。そうした日々の訓練が、試験という状況での集中力を助けているというわけだ。だから、ノイズだらけのリビングでも勉強が「できている」子に限っては、それでも成績が上がるかもしれない。
蓋然性はかなり低いけれど。何せ、少なくとも一般的な傾向として、集中を要するタスクの効率は部屋が静かである程向上することが分かってるしね。それに、勉強「できている」かどうかを確かめるのが難しいだろう。扱う問題が個人差に由来するものであるため、同じ人物をテレビのあるリビングとテレビの無いリビングとで勉強させて、試験結果に有意差が認められるか否かを確かめねばならないわけだし。
なので、結局のところ、少なともこの研究結果の上では、テレビをゴミ出すというのが最も簡単で確実なる、子供の成績アップの最適解になるだろう。テレビを観ない生活を送っている身としては、その心理的な抵抗の程がわかりかねるので、「簡単」としたが。

もちろん、テレビの害悪は恐らくテレビ番組にこそあるわけだから、映画やドラマ、アニメを観るためだけに設置してある分には問題なさそうだが。

客観という意味での客観は存在しない。

客観という意味での客観は存在しない。

それは一重に、不完全性定理不確定性原理によって判明した成果であり、それ以前に宇宙に対する人間の矮小さを考えれば当たり前のことである。如何に情報空間の広大さが同範囲あたりの物理空間のスケールを超えていたとしてもだ。完全情報が無ければ完全情報保持者もいないことがわかってしまっているのが現代なのだ。
そして、客観という言葉はこのありもしない完全情報と完全情報保持者とを前提とした物言いである。しかし、無いものには誰もなれない。数学空間よろしく人間が恣意的にルールを敷いた世界ならば、それもあり得るのかもしれない。とはいえ、数学空間の客観性とは、「数学が演繹的な営みであるのは当たり前だから、当然、数学的演繹法という言葉は無い」のと同じで、数学という言葉自体が既に客観性を含意しているから、数学に対して客観を語ればトートロジーである。
従って、文脈を問わず、客観という意味での客観は存在しないのである。誰がどの角度から見ても同じ解釈を引き出せる現象やそれについての知識など無いのである。仏陀が仏教という哲学体系にて示した仮説が、現代科学によって証明された形である。宇宙は無限である。ただそれだけのことなのだ。
だからといって、「客観という言葉を使うのをやめましょう」と言うつもりではない。完全情報の存在を前提とした解釈を取り除いても、「客観」にはまだ「自分以外の視点からの解釈」という意味が残る。というか、心理学においてはこっちの使い方の方がメジャーかも。
だが、この意味で使う際に注意を要することがある。それは先にも述べた通り、「誰も無いものにはなれない」ということである。客観の意味を単に「主観(=自分)から距離を取ったもう一人の自分」のように考える向きは多いだろうが、それは間違いだ。距離を取ったところで、視点の持ち主が自分のままなら客観ではない。あくまでも主観の一側面に過ぎない。
では何を以って客観とするのかといえば、「特定の他人」になったつもりでいることである。要するに、人は知っている存在にしかなり切れはしないから、客観の事実上の意味は「存在している他人の視点を借りている状態」のことになるのだ。これが限界としての諦めどころ。それ故の正しい解釈だろう。